1.よく効く薬
生水を飲むと危ない国は結構多い。そういう国に派遣される駐在員には僻地手当を支給されるべきだったと思う。パキスタンの生水も危険で、社宅には煮沸した水が常備されていた。それでも数か月に一度は腹具合が悪くなる。まるで水の中に煮沸しても消えない微量の毒が残っていて、それが体内に蓄積されて数か月ごとにわるさをするような感じだった。そんなとき、繊維担当の村上さんがこの薬が実によく効くよと教えてくれたのが,茶色の錠剤のエンテロヴィオフォルムだった。確かに素晴らしい効きめで、2錠服用すればぴたりと治る。ペニシリンに並ぶ世紀の名薬だなと感心したものだ。
英国作家のエリック・アンブラー(1909-1998)の『武器の道』(”Passage of Arms” 1959)の中に観光旅行中のアメリカ人がシンガポールでインド料理屋に招待される。店の中を蠅が飛び回っているのを見て、ホテルに戻ったらエンテロヴィオフォルムを嚥まねばなるまいと考える場面がある。また、次作の『真昼の翳』(”The Light of Day” 1962)ではスイスからイスタンブールに来た男が、ここの飲み水安全かね、念のためにエンテロヴィオフォルムを沢山持ってきたよという。二作品に続けて同じ薬の名が出てくるのが、作者の体験に基づいているみたいでおかしかったし、時代設定もちょうど私がパキスタンにいた頃だ。
調べてみたら、この薬はtravellers’ best friendという別名があったほど、インドのDelhi bellyとかメキシコMontezuma’s revengeといった水質の悪い土地で悩まされる症状に対する旅行者必携薬として有名だった。
ところが、日本では1970年にこの薬の製造販売は禁止されている。1960年代後半にしびれ、腹痛、麻痺、視力障害、全身の機能障害などに苦しむ患者が急増し、当初は正体不明の伝染性のウイルスによる症状だと考えられて、スモン病(subacute myelo-optico-neuropathyの略称だそうです)と呼ばれた。まもなく、この症状がエンテロヴィオフォルムを過剰服用したときの副作用だと判明する。それまではこの薬は健康保険組合などから家庭常備薬として配布されていた。数か月に2錠なら問題ないが、大量服用を続けると、恐ろしい副作用のある薬品だった。
エンテロヴィオフォルムはキノホルムの商品名の一つである。日本に続いて、アメリカ,スウエーデン、ノルウエー、NZなどが使用を禁止したが、最近になってアルツハイマー病の特効薬として使える可能性が出てきたという。
こんな薬が小説の中で1960年前後の時代背景を語るヒントになっているのが面白い。
ちなみに上記のエリック・アンブラーの二作品は絶版だが、もしも古本屋で見かけたら即座に購入し、ご一読なさることをお薦めする。楽しい読書になります。
2.消された切手
アンブラーの初期の作品”Background to Danger”(1937)にルーマニアのファシストのCorneliu Codreanu (1899-1938)の名前がちらっと出てくる。ずば抜けたカリスマ性を持ち、1927年に反ユダヤ、反共の超国粋主義の極右組織の〈大天使ミカエル軍団〉を結成、その名が示すように極右組織にしては珍しく東方正教会の信者群だった。1930年に組織の中に〈鉄衛団〉(The Iron Guard)と呼ばれる民兵集団を作り、これが首相二人と内務大臣を暗殺している。
1970年代の後半、チャウシエスク大統領の独裁時代にルーマニアに駐在していたとき、分厚い切手カタログを入手。ルーマニア政府が刊行したものだから、さぞや完璧なものだろうと思っていたが、帰国してからスコットの世界切手カタログを見ていたら、ルーマニア版のカタログには載っていないルーマニア切手があるのを見つけた。それがコドレアーヌ の肖像切手だった。
コドレアーヌは1938年4月に国王の命で逮捕され、脱走を図ったとして11月29日から30日の間に殺害された。通説では、脱走を図ったというのは口実で、実際は国王の指示で暗殺されたのだと言われる。彼の死後も〈鉄衛団〉は活動を続け、1941年には食肉処理工場で身の毛もよだつようなユダヤ系住民の虐殺を実行している。ルーマニア駐在中に、この国でもホロコーストがあったと聞いたことがある。その時はドイツ軍がやったのだろうと聞き流したが、これも〈鉄衛団〉の仕業だったのだ。
問題の切手は鉄衛団が数か月間政権を握った1940 年に鉄衛団結成13周年を記念して発行したものだ。チャウシエスク政権時代には、コドレアーヌなど存在しなかったかのように政府刊行の切手カタログから消されたわけだ。
この切手は新宿南口の切手マーケットで入手した。余談になるが、そのマーケットで、アメリカ政府が印刷したヒットラーの切手を見せられて驚いた。戦時中に検閲を潜り抜けてドイツ市民にプロパガンダを送り付ける作戦に使われたという。
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