2015年蓼科
廣岡さん遂にあなたの素敵な笑顔に隠された毒舌振りを見たり、聞いたりの機会なくなってしまいました。50年間お付き合いいただきありがとうございました。
最初の出会いは、パリのニチメンフランスの事務所でした。わたくしが会社に入って3年目の時であり、まだ仕事や会社のことがわからない若造でした。その生意気な若手社員を辛抱強く、懇切に教育してくださり感謝の気持ちでいっぱいです。
廣岡さんと言えばパリやフランスと重なる存在でしたが、わたくしにとっては、ニチメンフランスの,中興の祖と思えてなりません、パリ店を知る多くの社員の方が訪れた凱旋門近くのオッシュ通りにあった事務所は、当時飛ぶ鳥を落とす勢いのARCT(フランスが世界に誇った仮撚機)の日本における総代理権を持って日本の名だたる紡績を中心とした合繊業界を席巻しました。業界から引く手あまたの、他の競合機を寄せ付けない名機を担ぎ注文が殺到したお陰でチメンフランスは儲けに儲け、あの凱旋門近くの瀟洒な事務所を1970年初頭に買うことができたのです(わたくしに如何に良いものを仕入れるかの目を養えと教えてくれた商いでした)。
1989年5月フォンテンブロー
その数年後に、AIRBUS社の日本向け代理店となり東亜国内航空や全日空に売り込みむことに成功し、再度ニチメンフランスありと気を吐いていただきました。
この商いを始めとする数々の商売を開発、促進、拡販するために廣岡さんは前後10数年をパリで過ごされ、ニチメンフランスとニチメン全体に大きく貢献されました。
一方、大阪外国語大学のフランス語科出身であられたこともあり、こよなくフランスを愛され、フランス文化全般に造詣が深かったのですが、就中、フランス料理に惚れこまれグルメ=食通になって行かれました。何しろかの有名なMICHELINのガイドブックをトイレに持ち込み次に行くRESTAURANTの研究に余念がなかったと言われるぐらいうまいものへの探求心を持たれていたことが思いだされます。
きっと、黄泉でもどの霞がうまいだろうか、カスミの微妙な味の違いを楽しまれていることでしょう。そのうち私たちがあちらの世界で廣岡さんにお会いしたらその霞の微妙な味合いを教授いただけるものと期待しつつ合掌し追悼の言葉としたいと思います。
合掌
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