社友会のみなさまのなかには、ハワイをご存知の方が大勢いらっしゃると思う。ハワイの良さはいろいろあるが、気候、景色など、自然の美しさもさることながら、日本人にとっては、 緊張感がなく、居心地の良い場所である。ハワイでは日系人の地位が非常に高いことが理由の一つだと思う。100年以上前にはじまった農業移民の時代、日系人排斥運動のあった時代、日系人は二級市民、歓迎されざる外国人とされ、戦争がはじまると今度は敵性外国人として扱われた。では今の日系人の地位はどのように築かれたのか。日系人の苦労の蓄積があったからとか、時代が変わったからというのは簡単だが、このような逆境の中で誇り高い日系人が発揮した不屈の精神と、日本憎しという風潮が支配していたこの時代に、少数の白人たちが日系人に理解を示し、日系人から信頼を得ていたこと、これらの事実が織りなした歴史に注目したい。そのような人たちを代表する一人の日系アメリカ人と、一人の白人アメリカ人を紹介してみたい。
ハワイは1959年5月、アメリカ50番目の州として合衆国に併合された。現在の人口140万強、うち95万以上がオアフ島に住む。併合のあと白人人口が増えたが、あとは フィリッピン系、日系、ハワイアン系、中国系など。アジア系を合計すると40%を超えるので、白人にもマジョリティ意識はなく、ハワイの人たちは異人種の混合が当然と思っているようである。歴代知事も白人、日系、ハワイアン系、フィリッピン系と多彩である。
日系人の地位について言えば、第二次世界大戦における日系人部隊の活躍に負うところが大きい。戦時中、日系人の多くが敵性外国人として本土各地やハワイのキャンプに移され、その子弟が志願してヨーロッパで勇敢に戦ったという歴史がある。一世の親は、家名に泥をぬるなと言って、出征する息子を見送ったという。民主党上院議員であったダニエル(”ダン”)・イノウエ氏は、高校をでたあと外科医をめざし、ハワイ大学医学部に在学していた。1943年、日系人からなる442連隊が編成されるや直ちに志願、派遣されたのはヨーロッパ戦線である。ドイツの降伏が数週間後に迫っていた1945年4月、イタリヤ北部の山岳に立てこもるドイツ軍の撃破を命じられた。小隊長であったイノウエは、丘に立てこもる敵陣に10メートル足らずの距離まで這い上がり、右手に持つ手榴弾の信管を切り、投げようと右腕をあげた途端、肘に敵弾を受ける。右腕はだらりと肩から垂れ下がり、血を吹いている。信管を切られた手榴弾はまだ右手に握ったままだ。数秒で爆発する。イノウエは咄嗟に手榴弾を左手にもちかえ、次の弾を装填しようとしている敵兵に投げつけた。(同氏自伝から)。
右腕のないこの上院議員は、知るひとぞ知るアメリカの英雄であり、名誉職とはいえ、上院仮議長として大統領継承順位三番目という高い地位に登りつめた。余談だが、私には懐かしい思い出がある。ある旅行からの帰り、ロスアンジェルスからホノルル行きのフライトに搭乗した。通路側の席に座ると、そのあと乗務員の先導で入ってきたイノウエ議員が、私の右隣の席についたのである。私は、”Hi, Senator”とだけ声をかけたが、彼はさかんに咳き込んで、苦しそうにハンカチを口に当てていた。軽い咳だがなかなか止まらない。飛行機が離陸したあと、私はたまたま持っていた咳止めのドロップを袋から数個 取り出し、両座席の境にある肘掛においた。彼はひとつなめ終わるとまた次へと手を出し、私が新たに取り出したドロップを、5時間の飛行中ずっと舐めていた。ホノルル空港に着くと夜の10時をすぎていた。もう医者も、薬局もしまっている。私は袋の残りを全部彼に渡すと、かれはにやりと笑って頷き、袋を左ポケットに収めた。彼が乗務員の誘導で出口に向かう間、他の乗客は静かに座席についたまま、このアメリカの英雄が出口に消えるのを見送っていた。機内で彼は乗務員のサービスにたいしても、私とも、一言もしゃべらず、左手のジェスチュアーと表情を使っただけだった。翌朝の新聞でその日、イノウエ議員がワイキキのホテルで行われる在郷軍人の集まりでスピーチをすることを知った。そのおよそ1年後の2012年12月、イノウエ議員は呼吸不全が原因で、88年の生涯を閉じた。ハワイの国立墓地で行われた葬儀には、オバマ大統領も参列した。2017年はじめ、ハワイの州議会は、ホノルル国際空港をダニエル・ケン・イノウエ国際空港と命名した。イノウエ議員のことを詳しく書いたが、先の大戦中、ヨーロッパやアジアで活躍した日系人の逸話は数しれない。トルーマン大統領は、戦後ヨーロッパから引き上げてきた日系部隊をホワイトハウスに招き、「諸君は敵ばかりでなく、偏見とも戦い、そして勝ったのだ」と、その功績をたたえ、感謝状を贈ったという。
次に一人のアメリカ人。太平洋戦争の前夜から戦中、戦後を通じ、一貫して日系人に理解をしめした人物がいる。当時ホノルル警察に勤務し、のちに連邦下院議員、そしてハワイ州知事をつとめたジョンA.バーンズ氏である。戦前、ハワイに住む多くの日系人の家庭では、自宅に神棚をまつり、天皇、皇后の写真や、日の丸をかざるのが普通だった。1937年、支那事変が始まると、千人針の腹巻や、金銭を中国で戦う日本の兵隊に送り、中国大陸での日本軍の進撃に湧き立った。日米緊張が高まる中、アメリカ政府が、いったん日本との戦争がはじまれば、この日系人たちは果たしてアメリカに忠誠でいるだろうかと懸念したとしても不思議でない。当時ハワイに住む日系人は15万人、そのうち一世が3万7千人いた。こうした中、ホノルル警察は署内にFBIに協力する組織として諜報部を発足させ、当時刑事部にいたバーンズ氏を責任者にあてた。FBI側の担当はロバート・シバース氏であった。
連邦議会の不安が高まり、ミシシッピー州選出の議員が、ハワイ準州を民間政府から軍事政府に変えるべし、という戒厳令法案を提出した。1941年11月18日、日刊主要紙「ホノルル・スター・ブレティン」に投稿があった。署名はJ.B.とある。「ペンシルバニア、ミネソタ、ウエストバージニア、どの州でもよい。みなさんの州を相手にこのような法案が提出されたとすれば、どうしますか?これがアメリカかと疑いたくなるような仕打ちをされたら? ハワイだけ特別なのですか?ハワイの市民、外国系の人たちが非アメリカ人であるという証拠でもあるのですか?日本人は法律を守る善良な市民たちです。彼らが日本に愛着を持つのは当然です。こうした出身母国への愛着なしに、果たして良きアメリカ人であると言えますか?みなさん、アメリカ人らしくありましょう。正義は平等でなければなりません」(バーンズ伝記より、筆者抄訳)。
戦争の危機が迫り、日系人への風当たりが強まるなかで、公職にありながら堂々と主張をのべたバーンズ氏は、まさにアメリカの良心であると思う。FBIのシバース氏も良識ある人であった。真珠湾攻撃の1週間前、FBIは攻撃の情報をつかんでいた。シバース氏が密かにバーンズ氏にこれを知らせたとき、彼の目に涙がうかんでいたという。アメリカ全土のこうした風潮の中で、ホノルル警察やFBIにバーンズ氏やシバース氏がいたことは、不幸な時代にありながら日系人にはラッキーなことであった。開戦のあと、連邦政府は、アメリカに住む全ての日系人を収容所におくるよう命じ、カリフォルニア州を中心に西海岸からは12万人の日系人が米本土各地のキャンプに送られた。ハワイでキャンプに送られた日系人の数は、僧侶、日本語学校の校長など、リーダー職にある人たち中心に、1,444人にとどまった。日系人の人口は当時のハワイ全人口の37%をしめ、経済的にも、社会的にも、ハワイには日系人は必要だと、バーンズ氏らが働きかけたためである。
戦争のなかば、アメリカ陸軍は日系人子弟からなる日系人戦闘部隊をつくるという提案を行った。カリフォルニア州から2,500人、ハワイ州から1,500人の志願兵を募るという構想であったが、ハワイで志願した若者は1万人近くに達したという。結局、ハワイから2,500人がえらばれ、442連隊が結成された。日系人を庇ってきたバーンズ氏は日系の若者にたいし、アメリカ市民として愛国心を示すよい機会だと激励したという。
戦争が終わりに近づき、アメリカでは終戦で復員する若者の教育、職業への復帰が大きな問題であった。ハワイでも同様である。負傷してローマの病院にいるハワイ出身の日系人兵が親にあて、「俺たちは命をかけてアメリカのために戦った。しかし、ハワイに帰るとまた二級市民に戻るのですか」と書いてきた。少数の日系の有識者たちを中心に、日系人とのコミュニケーションのあったバーンズ氏も加わり、復員兵士への対応、ハワイ社会の改革、将来の合衆国への併合などの課題から、民主党の立て直しへと議論が進んだ。
バーンズ氏は警察官をやめ、政治家に転向した。彼が目指したのは、存在とは名ばかりの民主党の立て直しであった。理想はあっても、資金もない、人もいない。戦前から元ハワイ王朝と連携し、ハワイの政治を牛耳ってきた共和党の壁は厚かった。一方、ダニエル・イノウエ氏は、退役大尉として復員したあと、ハワイ大学、ワシントンのジョージワシントン大学で法律を学び、ハワイにかえって弁護士を開業していた。ハワイでは、442連隊退役軍人クラブができ、イノウエ氏はそのリーダー格だった。教育を受け、社会人になっていた元日系兵士たち、日系人コミュニティは、戦前、戦中にバーンズ氏が示した日系人への恩義を忘れていなかった。442連隊退役軍人クラブは、バーンズ氏を名誉会員として招いていたのである。1957年、民主党はついにバーンズ氏を連邦下院議会に送り込んだ。バーンズ氏らの努力もあり、1959年5月、ハワイ準州は、念願叶ってアメリカ合衆国に併合された。その年バーンズ氏は、最初の知事選に出馬したが、共和党の準州知事現職にやぶれた。しかしバーンズ氏は自分のあと イノウエ氏を下院議会に送り込む。1962年、バーンズ氏は州2代目の知事に就任、3期目には副知事として、もと陸軍情報部員であったジョージ・アリヨシ氏を起用する。バーンズ氏は、アリヨシ氏を自分の後継者と見据え、育てようとしていたのである。アリヨシ氏はバーンズ氏のあと、3期12年知事をつとめた。そのあと、知事にはハワイ系、フィリッピン系、白人系の人たちがついたが、現在は再び日系のデイビッド・イゲ氏である。イゲ氏の父は戦時中442連隊に所属し、ヨーロッパ戦線で戦った。
バーンズ氏は連邦下院議員として、ハワイ準州の合衆国併合に尽力、知事としてはホノルルにある州議会ビルの建設、ハワイ大学のレベル向上、そのほか数々の功績を残した。カカアコの海岸近くに立つハワイ大学医学部には、John A. Burns School of Medicine の名が冠せられている。
(注)写真は、1959年下院議員に当選したイノウエ氏夫妻を祝うバーンズ氏。(ハワイ大学出版 ”JOHN A. BURNS, THE MAN AND HIS TIMES” より)
後記
私は昨年9月、30年を超えたハワイ暮らしに終止符を打ち、日本に引き上げてきました。旧友との親交を深め、日本の食事、四季、地方のよさを味わいつつ、余生を過ごしたいと願ったからです。ハワイについての感想は多々ありますが、みなさまにも親近感のあるハワイについて、これも知っていただきたいという思いで、この拙稿を寄せさせていただきました。ハワイの日系人が築いた高い地位の基盤となった歴史の一端をお読み取りいただければ幸いです。
この拙稿は昨年、私が所属します大阪の小学校同窓会会誌「千里山会」に寄稿したものですが、千里山会のご了承をえて転載させていただきました。
以上
- [ 略歴]
- 米国ニチメン、大阪、東京社長室、企画室など、交互に勤務のあとフロリダに駐在、東洋不動産との共同投資(アリゾナ、フロリダなど)、鹿島建設とのコンドミニアム合弁開発(フロリダ)を担当。
あと東洋不動産の招きで移籍、同社ホノルル事務所に11年間勤務。退職後もハワイに居住し通算31年。2017年9月に帰国、現在千葉市在住。
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