私のソクラテス物語〜都市国家アテナイの凋落〜
塩野七生 最後の歴史長編と銘打った「ギリシャ人の物語」三部作は、彼女の名作「ローマ人の物語」に次ぐなかなかの力作で、その衰えをしらぬ筆致に読み応えの感動をおぼえた。主題は永遠の青春を駆け抜けたとされるアレクサンダー大王にはちがいなかろうが、読んでゆくうちに私の関心はソクラテスの死のことにくぎ付けだったことを告白しておかねばならない。
塩野七生もいうように古代ギリシャの真正アテネ人として三人の偉人を挙げるとすれば、一にBC480年サラミス海戦でペルシャの大軍を撃破した将軍・政治家のテミクレトス,二に同じくBC460年ごろアテナイの名政治指導者として民主政治の徹底につくしたペリクレス、三に同時代を生きた西洋哲学の開祖哲人ソクラテスがくる。
ソクラテスのことといえばその昔から耳にタコができる程聞かされてはきたが、齢80歳も過ぎて気がついてみると、その愛弟子プラトンが著した珠玉の名作といわれる「ソクラテスの弁明」はおろか、その三部作をなすと言われる「クリトン」も「パイドン」も読んだこともなかったのである。今さらながらソクラテスの言う「無知の知」を思い知らされる羽目を憾む次第だが、ここは恥を凌いで今からでも遅くはない。早速「ギリシャ人の物語」に平行させながら同じプラトンの「饗宴」をもふくめて、上述の名作にあやかることとしたのである。以下はこれらの名著の数々を読んだ上での「私のソクラテス物語」である。
ソクラテスの妻
ソクラテスが「国家の神々を拝まず、青年を腐敗させるという罪状で市民の代表に告発され、アテナイの牢獄で刑死したのは紀元前399年の春であった。」(「パイドン」による)今から数えれば2400年以上も昔のことになる。
パイドンというのは人の名前で、スパルタとエリスの戦争のとき捕虜として捕えられ、アテナイで男娼として売りに出されているところをソクラテスの目に留まり、その親友クリトンが身代金を肩代わりして自由の身になったといわれる男だ。後にソクラテスのグループに参加して哲学の道を歩んだという、ソクラテス心酔者の一人である。プラトン著す「パイドン」は主題はソクラテスが信じる「霊魂の不滅」だが、同時に彼の刑死の最後まで立ち会ったといわれるパイドンの証言を基にして、往時の親友たちが対話形式で語る哲人ソクラテス臨終の物語でもある。
この書の冒頭でパイドンが述べるソクラテス刑死の朝の獄中の様子は克明でやるせない。こればかりは原文の翻訳(岩田靖夫訳)をそのまま下記にお借りしたい。
「……この日に(刑死の日 註)先立つ日々においても、いつも、私も他の人々もソクラテスの下に通うのを常としていました。あの裁判が行われた裁判所のところへ朝早く集まってはね。それは牢獄の近くにあったからです。われわれはいつも、牢獄の門が開かれるまで、お互いに話をしながら待っていました。門はあまり早くは開かれなかったのです。門が開くと、われわれは中へ入ってソクラテスのもとへ行き、たいていはあの方といっしょに一日中を過ごしたのです。とくにあの日は、われわれはいつもより早く集まりました。…………そこで、われわれは出来るだけ早くいつもの場所へくるようにと、お互いに知らせ合っていたのです。われわれが牢獄へ着くと、いつもはわれわれを入れてくれる門番が出てきて、待っているようにと言いました。かれが命ずるまでは、中へはいらないように、と。「というのは、いま11人の刑務委員がソクラテスの鎖を解いていて、今日かれは死ななければならない、という命令を告げているところだからです」とかれは言いました。しかし、それほど長い間もおかずにかれはやって来て、われわれに入ってもよいと告げました。中へ入ると、いましがた鎖から解かれたソクラテスと、クサンティッペ(かれの妻 註)が、むろんご存じでしょう、あの方の子どもを抱いて側に座っているのが、見えました。クサンティッペはわれわれを見ると、大声をあげて泣き、女たちがよく言うようなことを言いました。「ああ、ソクラテス、いまが最後なのですね、この親しい方々があなたに話かけるのも」。するとソクラテスはクリトンの方を見てこう言いました。「クリトン、だれかこれを家へ連れて行ってくれるとよいのだが。(註 クリトンはソクラテスの最も信頼厚い竹馬の友)
こうして、大声で泣き叫び胸を打って悲しむクサンティッペを、クリトンの家の者たちが連れ去ったのです。…………」
ソクラテスが終生その哲学を通じて追い求めていたものは、強烈ともいえる「主知主義」と「理性中心主義」に根差した「徳」(アレテー)の実現であった。畢竟するに知行一致ならぬ「知徳一致」こそは、人間の最大の幸福のもとであることを彼は信じて疑うことはなかった。因みに「主知主義」とは何かというに今日この解釈は難しいが、私に言わせればこんなふうに理解されようか。
つまりは都市国家アテナイが経験したような繁栄、即ち地中海の海上権制覇と民主政と奴隷制がもたらしたもの、それが有り余る富と自由と、そして閑暇だったことはいうまでもない。そこにソクラテスがいうところの、(物事の本質を)「知る」ということを至上主義として、これを人生最高の幸福と考えた独特の哲学が生まれたのではないか。
それはソクラテスが刑死に服さんとする瞬間まで、泰然自若として、わが身を持した姿のなかにも見て取れる。それにしてはひかえる妻のクサンティッペの愁嘆場の不幸との対比が気にはなる。のっけから「パイドン」の話になってしまったのは、私の真っ先の関心がその妻クサンティッペの愁傷にばかり気が留まったからでもあるが、そればかりではない。ソクラテスの刑死に至る真相(秘密)に迫ろうとするとき、「パイドン」は大変参考になることに気がついたからであるが、そのことは後述するとしたい。
アテナイの凋落とアルキビアデスという男
いかなる歴史事件にしろ、ましてソクラテスの刑死事件ともなれば、それなりの歴史的な背景(必然性)はあるものだ。この事件も都市国家アテナイの凋落を措いてその原因を語ることはできない。
塩野七生は先述のように三人の古代真正アテネ人としてテミストクレスとペリクレス、そしてソクラテスを挙げたものだが、私にいわせればもう一人、これとは真逆の真正悪徳人アルキビアデスを加えて、たかだか一世紀(紀元前5世紀)にわたった都市国家アテナイの、四人男が語る栄枯盛衰の歴史と見立てたら如何なものかと思ったりもする。そのアルキビアデスだが、彼こそはアテナイ凋落のまごうことなき歴史的真犯人(張本人)と見なされているからである。そればかりではない。何とその彼こそは曾てソクラテス最愛の愛弟子だったのである。ここがまたソクラテスの死の真相を読みとることのできる肝心な部分である。
もうすこしアルキビアデスのことを調べて見よう。アテナイの民主政の旗手だった先述のペリクレスの出自は高貴な名門中の名門だったとされるが、アルキビアデスもまた同門の出身だったという。ペリクレスがペロポネソス戦争の途中不慮の病死をとげていらい(BC429)、アルキビアデスがアテナイの政界に頭角を現してきたのはそれだけではない。彼は才能、容姿,人望ともに傑出した人物とされ、徳にせよ悪徳にせよ、彼の右にでる者はいないとまで言われていたらしい。しかしその彼はまた幼少のころから傲慢・放縦で、自分より劣ると思われる他者を見下し、自分より優れていると判断した人物には並々ならぬ尊敬と情熱を注いだ。
それゆえ師匠に当たるソクラテスにおいては,かれは心酔のあまりソクラテスが他者を見ただけで嫉妬を覚える程だったと言われている。その心酔ぶりはプラトンの「饗宴」にも詳述されている。たとえば彼はペリクレスの演説を聴いてその巧妙さに感心させられるが、心を乱されることまではない。しかしソクラテスの話を聴いた後では涙があふれてとまらなくなる、とまで述懐している。もっともアルキビアデスが同性愛者だったこともつとに有名な話で、「饗宴」にはソクラテスに秋波を送るものの、見事に拒まれる場面などが描かれている。
しかし政界や戦場となると、彼の傲慢と放縦は都市国家アテナイに重大な禍をもたらした、彼にはそのために政敵が多過ぎたのである。ペロポネソス戦争での主戦論も、彼が主導したシチリア島遠征も結局は思うにまかせず、とどのつまりは、政敵からヘルメース像破壊事件の容疑者として遠征先から帰国命令を下される始末。しかもあろうことか、このとき帰国命令に背いて不倶戴天の敵国スパルタに亡命したのだ。さなきだに彼はそのスパルタに対してシチリア島の防衛を進言するに及ぶ。支離滅裂とはこのことであろう。
アルキビアデスの進言によるスパルタ軍のシチリア島派遣で、アテナイ遠征軍は完全崩壊して降伏、おまけに勝ち誇るシチリア軍(シラクサ)は、ペロポネソス戦争に参戦でスパルタ支援にまわる。アテナイ凋落の始まりであった。そのアルキビアデスの不始末の絶頂は、こともあろうにスパルタの王妃を寝取ってしまったことに極まれる。そのため今度はスパルタを追われ、ペルシャ亡命を余儀なくされるのだが、事ここに至るとこれはもう正気な沙汰ではない。が、その後一旦は古巣のアテナイに凱旋で迎えられるというような、破天荒な後日談もあるがそれはもうやめにしておこう。結局彼の最期は終の亡命先トラキアでスパルタの差し金による暗殺であった。
アルキピアデスによる都市国家アテナイの、昏い崩落の物語ばかり並べ立てた。ペリクレスによる世界史的な金字塔の民主政も、市民によって享受されたのは半世紀にも満たない短期間だったといわれるが、私の感慨は別のところにある。そんな市民のなかに、哲学者ソクラテスが含まれていたこと、その彼がアテナイ民主政空前の繁栄も凋落も、ともに目の当たりにしていたことであった。
更には、民主政とは言いつつも実際には、政治家ペリクレスただ一人によって、アテナイが統治されていたという事も注目に値しよう。民主主義のアポーリアは今も昔も変わるところはないといえる。
ソクラテスの裁判と弁明
かくて、シチリア遠征軍が完膚なきまでの敗北を喫し、あまつさえ30年も闘ってきたペロポネソス戦争でスパルタに敗れることとなったとき(BC404年)、都市国家アテナイの市民の心を抉ったものは何だったか。茫然自失と自信喪失、そしてその後に続いたのが怨念だったとしても無理はない。横溢する富と自由、そして民主政を誇ったアテナイには、繁栄は二度と復帰することはなかったからである。
しかしその怨念を晴らすにしてはアルキビアデスはもういない。市民の目が彼の恩師ソクラテスに向かったのは自然の流れといってもよかったのではないか。市民から選ばれたソクラテスの告発人が挙げた訴因の一つに、青年の腐敗を招いたとあるのは、まさにアルキビアデスの政治指導や私生活の無軌道ぶりを指しているのである。
2400年もさかのぼるその昔、ソクラテス哲学の後継者たるを自認したプラトンは「ソクラテスの弁明」のなかで、渾身の筆致をもってソクラテスの弁明再現を試みている。かれはソクラテス裁判の一部始終を傍聴していたからであろう。同じプラトンの創作になる力作「饗宴」も、ソクラテス弁明のための、あえてアルキビアデスを擁護せんとする力強い論述が注目される。
私の推察によればの話だが、民主政下のアテナイにおいてソクラテスが、とりわけ政界を目指そうとする若き俊秀たちの間で、憧れの的であったのは、ひとえに、彼ソクラテスの凄味を効かせた弁論術ではなかったか。民主政を牛耳ろうとする者にとって、優れた弁術こそ唯一つの武器であったことは、古今東西云うを俟たない。そのことはプラトンの「ソクラテスの弁明」や「饗宴」を読んでいても、ひしひしと読者の耳に響いてくるように思われるからである。
もうひとつ、ソクラテスの弁明のために言い添えておきたいことがある。それは彼がアテネの街角という街角で市民の誰彼となく、巧みな弁論術で相手方の無知を暴きたてることを常とはしたが、決して政治の世界に(民主政だろうが寡頭制であろうが)足を踏み入れたことはなかったということである。
しかし執拗且つは挑発的なソクラテス自身による弁明のためでもあったろうが、結局この裁判の最終判決はといえば、ソクラテスへの死刑の宣告であった。最初行われた裁判は有罪か無罪を問うものだったが、市民から選ばれた裁判官500人のうち250人が有罪に、220人が無罪、30人が白票という結果であった。しかしつづいて行われた投票は量刑を死刑とするか否かであったが、今度は死刑が360票、無罪が140票だったといわれる。
実をいえば、アテナイの市民裁判官とて、その多くが欲していたものは死刑などといった極刑ではなく、ソクラテスの譲歩とか哀願によって、罰金刑とか重くとも国外追放止まりで済ますことにあったことは常識内だったらしい。にもかかわらず彼は頑としてこれを受け付けなかった。訴因の青年を腐敗させたという罪も、都市国家アテナイ公認の神々を信じない罪に対しても、真っ向から弁明反論してやまぬばかりか、死をも恐れぬ不退転の論陣を張ったからたまらない。有罪票の時よりも死刑票が増えた理由はここにあったのだ。
一方、獄中の彼の下には連日彼の信奉者や心酔者が詰めかけていたことは、上述プラトン著す「クリトン」でも見受けられる。クリトンは明日は刑の実施という前の日の晩まで、ソクラテスに脱獄を勧め国外逃亡を説得しようとしているのだが、ソクラテスはこれも頑としてはねつけている。クリトンは先述のようにソクラテス幼少時代から最も信頼が厚く、財力も少なからずの男だったらしいから、獄吏の籠絡などはお手のものだったことが覗われて切ない。
しかしそのクリトンもまたソクラテスから、相手が不正だからといって自分もまた不正をもって対抗しようとすることの愚を説かれ、更には親の代から世話になってきた都市国家アテナイに対する恩義に報いるには、悪法といえどもアテナイの法に殉じて従容として死をえらぶと、逆に説き伏されてしまうのだった。「クリトン」にはこの辺の情景が細やかに描かれている。
ソクラテスの死と霊魂の不滅
最後になるが、先述したようにプラトンの著す「パイドン」について、もう一度触れることにしたい。私はこの著作の中に、ソクラテスが裁判で告発者たちから非難されることになる、彼の神々に対する不信心を解明する鍵が隠されているように思うからである。
ソクラテスによる弁明にもかかわらず、この裁判官たちの判断を硬化させた理由を、もしも彼の弁明のときの頑なな態度だけには求められないとすれば、という但し書き付での話だが、その理由としてソクラテス自身の神々に対する不信心は非難されても仕方ない、というのが私の考え方である。
何故かというに、私はまず「ソクラテスの弁明」のなかでも彼が強弁しているDaimonion(ダイモニオン)なる神々(神霊とも)についての、得体の不確かな弁明を挙げる。私の想像では、この神のもとはといえば英語のDemon(魔神とか鬼神にあたる)ではないかと考えられるが、本当のところは今日なお学者や研究者によっても要領をえない。確かなことといえば、ソクラテスがこの神を信頼しきっていたことである。が、2400年も以前にこんな神を信じている者は、都市国家アテナイの市民の中には独りもいなかったのではないか。裁判官の多くがこの問題に関する限り、ソクラテスに強い不審を覚えたに違いない。
正直な話、長い間私自身もソクラテスが神について一体どう考えていたのか分からなかった。がしかし、「パイドン」のなかで霊魂の不滅についてのソクラテスの言説を読んでいるうちに、私は突然霧が晴れてきたと思った。
つまり、云うならばソクラテスは、アテナイの市民が信じていた神々よりもその前に、己の霊魂とその不滅を固く信じていたことを突き止めた、というのが率直な私の発見であった。
ソクラテスという人物を評するに、宗教的神秘主義者の側面を云う研究者は多い。無論その彼が徹底した主知主義者であり哲学者であり、同時にまた現実的な合理主義者である側面を認めたうえでの人物評であろう。傑作「パイドン」は、数学者ピタゴラスに発するピタゴラス派の哲学者たちによる対話編といえる。当時のピタゴラス派といえば、イタリア半島を根拠地として霊魂の輪廻転生を説く強大なピタゴラス教団のことであった。
ソクラテスが霊魂の輪廻転生まで信じたかどうかは確かでないが、彼がその不滅を信じていたことは「パイドン」によって疑いをさし挟まない。彼はピタゴラスよろしく数学にも、アナキサゴラスよろしく天文学にも、更にはその無神論にさえ通暁してはいただろうが、彼の行き着いた先は神秘的な霊魂の世界だったにちがいない。
彼はそこに哲学(主知主義と理知主義)の至福を感じ取っていたから、ことさら神々の加護や救済を求める余地はなかったと考えられる。しかし、だからと言ってソクラテスが神々を信じなかったといえばそれはウソになる。彼は時々神託を求めていたことで知られているが、その時彼が天上の神々との間に橋渡しを依頼したのが、前述の神々Daimonion(Daimoniaの複数形)ではなかったかと私は考えている。つまりはこれがもしdemon(鬼神)なら、古代ギリシャでも低位の神々として存在は認められていたというし、不思議なことにわが国でも、「鬼」は卑近な神として、親が小さい子供のいたずらなどを諌めるときなどによく使われてきた。
しかし繰り返しになるが、天上にまします高位の神々にたいしても、彼が求めていたものは決して国家や個人の加護とか救済のような大げさなご利益ではなかった。彼はひたすら個人的に正しいこと、善いこと、美しいことに専念し、その実現にまい進していたから、時には正邪・善悪・美醜や「徳」について己れ霊魂としての疑問を感じるようなことがあったのではないか。神託は、そんなときの彼が天上の神々に求めた実際的な回答の一種ではなかったかとも思える。以上は彼に対する神託の多くが諫止的なものだった、といわれるところからの私の想像である。
天上にまします神々についてソクラテスは多くを語らない。確かなことは、彼が信じる神々は、アテナイの市民が信じたアクロポリスに祀る守護神をはじめとするアテナイ伝来の神々ではなかったことだ。それに彼は神々にも人間と同じく、善い神と悪い神、賢い神と愚かな神がいることを見分けていた。それは「パイドン」のなかで、彼の臨終に居合わせた信奉者や弟子の者に告げる、辞世の挨拶にもうかがえる。彼は言う「冥府では、この世を支配する神々とは別の賢くて善い神々の下に行くだろう」と。
これがキリスト生誕より400年もの昔、ソクラテス昇天のときの(古代ギリシアの)、典型的な多神教の風景ではなかったかに思える。そして彼はまた辞世に際して己の霊魂の不滅を篤く説き起こす。死こそは霊魂と肉体の分離であり、霊魂浄化のときであること、そしてこれこそがまさに彼の本望だったことを告げた後、従容として、毒人参入りの杯を口にしたのだった。
死に臨んでなほ、ソクラテスが持すことのできた驚くべきこの泰然自若こそは、彼が信じていたものが、神々はともかくとして、畢竟するに、己の霊魂の不滅だったことを如実に示している。
(終わり)
最近のコメント