私がヒューストンに赴任したのは1972年の4月のことでした。
当時の会社規則に従って家族が到着したのは6か月後。10月31日、ハロウィンの当夜、妻は当時4歳の長男と2歳の二男を伴ってやってきました。
私たち家族4人の最初の住まいは1112 Bering DriveにあったHedwig Apartmentの一階でした。
そのうちに、子供たちは幼稚園へ通うようになりました。最初は目の色の違う子供ばかりに恐れをなしていた息子たちですが、翌日からはトラブルもなく幼稚園に通うようになりました。
同じアパートには同年輩のアメリカ人の子供たちもいて、すぐに仲良しになりました。
その中にジョシュアとミッシーという二人の兄弟がいました。ジョシュア(通称ジョッシュ)は当時8歳くらい、ミッシーは5歳くらいだったと思います。住まいがアパート内の同じ並びの数軒先だったので、四人の子供たちはたちまち仲良しになりました。うちの子供たちの英語が急激に上達したのも彼らのおかげではないかと思っています。ジョッシュとミッシーのお目当ては、わが家の怪獣コレクション。当時アメリカのテレビではウルトラセブンの英語吹き替え版を放映しておりましたので、ジョッシュとミッシーは怪獣のおもちゃで遊びたくて仕方がなかったようです。
翌年の8月には、わが家にも娘が生まれました。
娘が成長するにつれて最初のアパートも手狭になったので、ダウンタウンからちょっと遠くなりますが12633Memorial Dr.のメモリアルアパートメントに引っ越しました。
ジョッシュとミッシーのお母さん、ミセス・マッケイはシングルマザーでしたが、二人の子供たちにせがまれて、フォルクスワーゲンのワゴン車でよく我が家に遊びに連れてきておりました。

ところが、1976年のある日、この3人が我が家にお別れに来ました。お母さんの仕事の都合かどうかよく分かりませんが、この家族はどこか北の方に引っ越すことになったとのことです。子供たちは今日がお別れの日なのに全く気にせずニコニコと楽しく遊んでおりました。

1978年10月、私たちは6年間のヒューストン勤務を終えて帰国いたしました。
ヒュートンに行ったときは4歳だった長男は、帰国するときには小学校の5年生に、次男は3年生になっておりました。またヒューストンで生まれた娘は5歳になっていました。
子供たちにとっては日本が初めて国、あるいは初めての国同様の環境で、新たに適応するのは子供たちなりに苦労があったと思います。
それから3年経って、次男が小学校6年生の時に、当時あった少年漫画雑誌「フレッシュ ジャンプ」の口絵募集に応募した次男は見事優勝して「フレッシュ ジャンプ」の巻頭を飾ることができました。当時は漫画作家ゆでたまご先生創作になる「キン肉マン」という漫画が大流行で、凝り性の次男は夢中になって読んでいたようです。そして、このキン肉のスピンオフ作品「闘将!拉麺男(たたかえラーメンマン)」という漫画で募集されていた敵キャラクター、武器、必殺技の3部門のジャンルの中で、息子が応募した必殺技が全部門の最優秀賞をいただくことになった訳です。口絵には審査委員長アントニオ猪木氏の推薦のコメントが添えられており、息子の名前と顔写真が囲みの中に掲載されておりました。

それから暫くするとアメリカから一通の手紙が次男宛てに届きました。
ジョッシュからです。彼の日本好きは続いていたらしく、日本雑貨を扱っているお店の店頭で「フレッシュ ジャンプ」を見ていたら、次男の顔写真を見つけたというわけです。「凄いな、Youは将来漫画家になるつもりか。」とか簡単な内容でした。
それを契機に、わが家の息子たちとジョッシュ・ミッシーとの文通がはじまりました。

1985年に私はニチメン鉄鋼販売へ派遣されました。
鉄鋼販売でのある日、妻から会社へ「ジョッシュから電話があって、ホテル・オークラにいると言っているから連絡を取ってみてくれ。」とのことでした。
私がホテルに電話してみると、ジョッシュにつないでくれました。
彼は「今、ある映画俳優のお忍びの日本旅行に同行して来ている。彼は彼女を連れてスイートルームに止まっている。自分はスイートルームの一隅に泊めてもらっているので、今度電話するときにはその俳優の部屋の名前を言ってくれ。」といいます。
その俳優の名前を訊くと、リバー・フェニックスだといいます。聞いたことのない名前なのでスペルを確かめてみるとRiver Phoenixです。ずいぶん変わった名前だなと思いましたが、私はこの俳優が将来ハリウッドの大物スターになるだろうと言われていた若手新進俳優だとは知りませんでした。映画好きな方は覚えておられるでしょう、アメリカ映画「スタンド・バイ・ミー」で登場する少年たちのリーダー格を演じた凛々しい少年を。あれがリバー・フェニックスです。
その後、次男と連絡を取り、すでに若者に成長していたジョッシュとリバー・フェニックスのアテンドは次男に任せました。
リバーは自分のバンドを持っており、そのバンドのメンバーとのつながりで知り合ったジョッシュも伴って来日したものです。
次男はもうサラリーマンになっていたと思いますが、リバー・フェニックスとその仲間たちは全員菜食主義者でレストランを探すのに苦労したそうです。上野の豆腐料理屋へ連れて行ったそうですが、なんとしたこことか、息子はカメラを持参していなかったので、折角のハリウッドスターとの夕食の証拠写真を撮りそこなってしまいました。
その菜食主義者のリバーが1993年に麻薬の過剰摂取のためナイトクラブで急死したとのニュースに接した時には本当に信じられませんでした。

ジョッシュはその後、都内のライブハウスやフジ・ロックフェスティバルでの演奏に何度も日本にやってきました。宿泊場所は春日部市の芳賀家と決めていたようなので、わが家でも空いている部屋をジョッシュに提供しました。一度は忙しい息子たちに代わって我々夫婦で日光を案内したりしました。
こうして、何度も来日を重ねているうちに、往年の美少年ジョッシュも50代のおっさんになってきました。彼はいつまでたっても気ままなバガボンドで時間の観念が全くなく、明日アメリカへ帰るエアチケットを持っていることさえ忘れていることすらあります。好きな日本のレコードを集めていて、お気に入りは梶芽衣子の「怨み節」とは笑わせてくれます。

最後に日本へ来たのは2016年の8月でした。このときは我が家に一泊してから次男夫婦宅に三泊。我が家では娘の娘たち(私たちの孫)と打ち解けてジェンガなどやって遊んでくれました。また次男夫婦はジョッシュを群馬県の四万温泉へ連れて行き、映画「千と千尋の神隠し」の湯屋のモデルになったという旅館「積善館」に宿泊したそうです。
私たちと別れるときにジョッシュは「今度は、いつ来られるか分からない。」と言っていましたし、息子にも「最初に合ってからもう40年以上だな。」とやや感傷的になって涙をうっすらと浮かべていたそうです。またジョッシュから連絡が来ることがあるでしょうか。
私たちは待っています。