今、香港が一国二制度で揺れている。今回は一国二制度について少し考えてみることにする。
一国二制度は香港とマカオに導入された統治制度と思われる方が多いが、中国の歴史を振り返るともっと古い時代から採用されていた制度だということに驚かされる。一国二制度は実は18世紀から始まっていたのをご存じだろうか?
18世紀の中国(清)には18の省があり、その外にはチベットをはじめ、モンゴル・新疆(しんきょう)など「藩部」(はんぶ、中国語発音:Fān bù)と呼ばれる地域があり、その外側に朝鮮やベトナムなどの朝貢国があった。藩部とは中国、清代に中国本土および東北三省を除くモンゴル、新疆、チベット、青海地方の総称。 これらの地方は18世紀後半までに清朝に征服されたが、清朝はこれらを直轄領に編入せず、中央官庁の理藩院の監督下にそれぞれの自治方式にゆだねて統治した。清朝は藩部の統治にあたっては、現地の伝統的文化の維持、現地首長を通じた政治などの懐柔策を採って統治した。
清朝は「因其教不改其俗」(伝統の継承を認め、慣習を変えない)という原則の下、意図的に現地民族社会の文化伝統を維持・統治した。具体的には現地民族集団の有力者を用いた間接統治の方法を導入、伝統的社会と政治構造を維持させた。清朝皇族とモンゴル王公との政略結婚が制度化され、モンゴル地域における部族首領を行政の首長とする「ジャサク制」、チベットにおけるダライ=ラマを首領とする「政教一致」、ウイグル族の居住地域における地元の有力者を行政の首長とする「ベク制」などはそれであった。
清は多民族国家であり、清の皇帝は漢民族の皇帝のみならず、同時に満州人の首長で、モンゴル族の「汗(かん)」と呼ばれる最高位にあり、またチベット仏教の保護者である「大施主(だいせしゅ)」でもあるという4つの顔を同時に持つ必要があった。このことにより多民族国家である清という巨大な国の統合を可能にした。とりわけ清帝国を纏めるのに最も重要だったのが、チベット仏教である。チベットとモンゴルに影響を及ぼすために、清朝皇帝はダライ・ラマと同列に位置していなければならなかった。このため北京市内にチベット仏教の大寺院である雍和宮(ヨウワキュウ)が設置された次第である。この建物は1694年清の雍正帝(ようせいてい、清朝第5代皇帝、清朝の全盛期の皇帝の一人、在位1722~35年)が帝位につく前、親王であった時の王府(皇族の屋敷)で、乾隆9年(1744年)チベット仏教の寺となった。万福閣にはダライ ラマが贈ったといわれる一木造りの弥勒仏が安置されている。(添付写真)。
さて香港で導入された一国二制度とはどのようなものだろうか?
ブリタニカ国際大百科事典小項目事典に以下説明されている。
「一つの国、二つの制度」 (一個国家・両種制度) の略称。中国が香港、マカオの主権を回復し、台湾との統一を実現するために1978年末に打出した統一方針。この方針によって、中華人民共和国を中央政府として、平和統一の前提下で大陸は社会主義制度、香港、マカオおよび台湾は高度な自治権を有する特別行政区として資本主義制度を実行する。具体的には、特別行政区は現行の社会・経済制度、法律制度、生活方式および外国との経済文化関係を変えず、立法権、終審権、外事権、貨幣の発行権を有する。また台湾の場合、大陸に脅威を与えないかぎり独自の軍隊をもつことができる。
1984年12月19日、中国は1997年の香港中国返還問題に関する共同声明を発表し、1990年に採択された香港基本法で1997年以後の香港基本制度を定め、香港に関する「一国二制度」を具体化し、1997年7月1日の返還に伴って適用した。また、1987年4月 13日、中国とポルトガルはマカオの中国返還問題に関する共同声明を発表。1999年12月20日の返還に伴って同じく「一国二制度」を適用した。台湾との統一工作も進められている。一国二制度の方針が打出された背景として、「改革・開放」方針のもとで、中国はイデオロギー重視から脱却し、現実の利益を重視する内政外交に転換することがあげられる。
また朝日新聞「キーワード」解説に以下記載されている。
一国二制度:英国の植民地だった香港が1997年に中国に返還されるにあたり、50年間は資本主義を採用し、社会主義の中国と異なる制度を維持することが約束された。外交と国防をのぞき、「高度な自治」が認められている。香港の憲法にあたる基本法には、中国本土では制約されている言論・報道・出版の自由、集会やデモの自由、信仰の自由などが明記されている。
(2017-07-01 朝日新聞 夕刊 1総合)
一国二制度を提唱したのは鄧小平である。中国共産党の最高実力者であった鄧小平が、1970年代末に台湾問題を平和解決するために提案したものとされる。その後、全国人民代表大会常務委員会委員長であった葉剣英が1981年に発表した台湾問題に関する談話に、中国との平和統一に応じれば、中国は台湾の現状を尊重し、高度な自治権と軍隊の保有を容認し、経済社会制度を変えないことを保証する、という内容が盛り込まれた。
1997年にはイギリスから返還された香港で一国二制度が初めて導入された。
英国と中国が1984年12月に調印した「英中共同宣言」には、英国が1997年7月1日に中国に主権を返還するとともに、中国は2047年6月30日までの50年間、「言論の自由」を含む民主社会や資本主義経済を維持し、香港における高度な自治を保障することが明記されている。
返還後の「香港基本法」には、行政長官と立法会(議会)の議員全員を「最終的に普通選挙」で選ぶことも記された。
また中国政府は2014年6月に「一国二制度の香港特別行政区における実践」と題する白書を発表し「一国二制度は香港の長期にわたる繁栄と安定に寄与した」などと評価したが、返還後、中国政府は香港の選挙や言論の自由に干渉し、制度が守られていないと主張する香港市民も多く、2013年以降、中国政府による香港の選挙制度への干渉に抗議する市民デモが頻発している。
2019年4月逃亡犯条例改正案が香港特別行政区立法会(議会)で審議が始まった。本改正案は容疑者の身柄引き渡し手続きを簡略化し、香港が犯罪人引き渡し協定を締結していない中国人民共和国(本土)やマカオ及び台湾(中華民国)にも刑事事件の容疑者を引き渡しできるようにするものである。改正案が成立した場合、香港行政長官は事例毎に引き渡し要請を受け付けることになる。要請を受け付ける容疑には殺人罪のほかには贈収賄、入出国審査官に対する詐欺など7年以上の懲役刑が科される可能性のある犯罪が30種類以上含まれる。また、中国大陸などから要請を受けて資産凍結や差押を行うこともできるようになる。香港政府は「政治犯」を対象に含まないとしているが、香港市民は実質的に中国の法律による取り締まりを受けるのではとの恐れを抱いている。1997年の中国返還後も香港の高度な自治を50年間認めた「一国二制度」が崩壊するとの懸念が強まり、香港住民の多くが本改正案に反対、改正案の撤回を求めて大規模なデモが多発している。2019年6月16日逃亡犯条例」改正案の完全撤回や林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官の辞任を求めて香港住民750万人の1/4強にあたる200万人もの住民が抗議デモに参加し、主要道路や脇道を埋め尽くした。
香港政府トップの林鄭月娥行政長官は2019年9月4日のテレビ演説で、香港から中国本土への容疑者引き渡しを可能にする「逃亡犯条例」改正案を正式撤回すると表明した。デモ参加者らの要求はすでに改正案の撤回にとどまらず、林鄭氏の辞任、警察の暴力追及や拘束された仲間の釈放、普通選挙の実施などに広がっており、撤回表明は遅きに失したとの見方も出ている。
実は中国はイギリスからの香港返還に沿って1997年7月1日の未明に中国人民解放軍駐香港部隊(総兵力6千名)を配備(添付航空写真)しているが、香港戦力は極めて小規模である。本土側の広東省にも基地がある。香港の軍事基地が手狭なことから、駐香港部隊は大型兵器を香港ではなく本土側に配備している。香港駐留の意義は防衛上の理由よりも、香港に対する主権の回復を誇示することが大きい。また大規模なデモが続く香港で、中国本土との境界付近にある深圳(SHENZHEN)市の競技場に中国人民武装警察部隊(*)の大規模部隊を集結させおり、香港反政府デモが収まらなければ何時でも香港に乗り込める体制を整えているとの報道もある。中国は2019年10月1日に建国70周年を祝う国慶節を迎える。もし中国が中国人民解放軍駐香港部隊を動員させるか或いは中国人民武装警察を深圳から香港に突中させて反政府デモを鎮圧するような事態が起これば、第二の天安門事件となりかねない。筆者はこの事態だけは絶対に避けて欲しいと願っている。
中国は清朝の時代から一国二制度を導入、広大な領土を統治してきた。先人の英知を生かし、香港の一国二制度を守り、政治を安定させ、高度な自治を継続、経済発展に繋げて欲しいと祈るばかりである。(追記:本寄稿文は昨年10月1日の国慶節70周年を迎える前に執筆したものだが、実際には上記のような事態が発生しなかったので一安心した次第)
注:*中国人民武装警察部隊
中国人民武装警察部隊(中国語: 中国人民武装警察部队、武警)は、中華人民共和国の準軍事組織(国内軍ないし国家憲兵)として、国家の軍事力(武装力量)の一翼を担っている。武装警察は2008年8月には、新疆ウイグル自治区で発生したテロ事件の容疑者の拘束に際して、容疑者側が抵抗したため、6人を射殺、3人を拘束した事が報道されている。2008年3月にチベット自治区などで起きたチベット族による暴動でも武装警察が鎮圧に当り、同年5月の四川大地震では災害復旧活動に当った。なお、2008年に世界中で開催された北京オリンピックの聖火リレーには、武装警察学校(幹部候補生育成学校)の生徒から選抜された警護グループが編成され、聖火に随伴して走る姿が各国で報道された。2019年8月に中華人民共和国香港特別行政区で2019年逃亡犯条例改正案をめぐって大規模な抗議活動が起きた際は香港に隣接する広東省深圳市に大量の装甲車やトラックとともに集結した姿が各国で報道された。
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