2019年12月8日夕方、”一昨日(6日)、大山が亡くなりました”と、奥様からお電話をいただきました。びっくりしました。昨年夏ごろから体調を崩され、心配しておりましたが、早すぎます。残念です。
昭和11年のお生まれ、昭和34年入社、享年84歳。 ご冥福をお祈りいたします。
大山さんとは、木材本部(南洋材)、一木会(木材本部OB会)、ニチメン東京社友会など、ざっと48年もの長いお付き合いとなり、公私にわたり大変お世話になりました。 ありがとうございました。
振り返りますと、
1972年2月初旬、ジャカルタ駐事の大山さんからSSB通信で、”奥村君、1月31日に男の子が生まれたよ。名前を知らせ!”と大きな声が届いた。当時、自分はインドネシア、北マルク州、OBI島(東経127°30’、南緯1°45’)で展開中の「日綿オビ島森林開発ベースキャンプ」に勤務中。大山さんは同プロジェクトの「NICAS]と言うジャカルタHQの親分。当時、ジャカルタとキャンプとの交信は、SSB(Single Side Band Communication System)で、わかり易く言えば「長距離無線通信」。 距離は約2300㌔、”聞こえますか?、どうぞ。聞こえます、どうぞ。了解しました。どうぞ。・・・” と、肝心の要件よりもこれらのやり取りの方が多かったと記憶。
時代は若干戻りますが、大山さんは1964年~67年に日綿サンダカン駐事の2代目所長を務められ、岡村誠二初代所長と共に築かれた南洋材商い(原木仕入、検品、人脈など)の基本路線は、後続の我々若手(当時)にとっての素晴らしいお手本となりました。 小生は1969年8月のサンダカン訪問(大学紛争からの逃避旅行)以降、サバ州、サラワク州など駐在3回、十数度の短期出張の際、取引相手である原木Shipper(客家系華僑が殆ど)の多くの老板(ボス)から、度々、”大山さん元気か? お世話になった。よろしく伝えてください” などと、お声がけがありました。
※サンダカンは、東マレーシア・サバ州(旧英領北ボルネオ)東岸にある港湾都市で大戦中の日本軍占領下、戦艦「大和」も停泊していたとの話もあり、山崎朋子著「サンダカン八番娼館」で一躍有名になった都市です。
写真(大山さん提供)は、1965年頃の各商社、木材専門商社の駐在員の方々。
2015年9月、自宅で庭仕事の最中、”奥村君、石川さんの後任として「木材」担当の世話人になってくれ”と、大山さんから、やや一方的に電話がありました。断りの言葉も知らずお受けし、以来、世話人の先輩として手取り、足取りご教授いただき、今日に至っております。
大山さんは、ニチメン東京社友会創設時から社友会が誇る”知恵袋” ”ご意見番”として、「余人を以って代え難し」的な頼りがいのある方でした。 社友会運営上で最重要の緻密さを求められる「会員名簿」始め様々な記録を正確に作成維持され、以降の世話人会各位が活用させていただいております。ありがとうございました。
”奥村くん、チャンとやっとるか?”と、どこに居ても、突然、電話がかかってくるような気がしております。
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