私は1972年の10月にヒューストンに赴任して以来、合計7年半ほどヒューストンに滞在しましたが、その間に3回メキシコ旅行に行っております。

1.テオチワカンのピラミッド

1973年に長女が生まれましたので、その成長を待って、1974年暮れから1975年正月にかけて第一回のメキシコ旅行に行きました。あれこれ、見学先を予定していたのですが、なにしろメキシコシティの標高が2000メートル以上ある高地ですので、娘が高山病症状に陥り早々に切り上げてヒューストンに戻ってきました。
この時の目玉はなんといっても、テオチワカンのピラミッドでした。首都のメキシコシティから北東約50㌔の場所に位置するテオチワカン遺跡です。テオチワカンは紀元前2世紀ごろ造られた都市で、最盛期には約20万人を超える人々が住んでおり、下水道まで完備されていました。7世紀末には衰退し廃墟となってしまったこの遺跡は、アステカ族が見つけたときに規模があまりに巨大だったため、人間のものとは思えず「神々の座所」という意味の「テオチワカン」と名付けられました。
テオチワカンの遺跡は、その中央を南北約5キロ、幅40mにわたって貫く「死者の大通り」がメインストリートとなっています。その周辺には「太陽のピラミッド」「月のピラミッド」「城塞」といった巨大なピラミッドや神殿群が無数に立ち並び、その総面積は約20平方キロという巨大なものです。
太陽のピラミッドは、高さ65m、底辺が225mのテオチワカン最大のピラミッドです。頂上の平坦な部分には、かつて神殿が立っていたと推定されています。頂上まで248段の階段を登りきると、ピラミッド遺跡群がぐるりと眺められ、壮大なスケールを感じることができます。(このあたりの説明はWikipediaの説明をお借りしました) これに上る階段はすごい急角度で45度位ありそうでした。
2歳の娘を抱えた妻は、とても上ることなどできないので、下で待っていることにして私と二人の息子だけで上ることにしました。 ところが、意外なことが起こりました。
当時6歳と4歳の息子たちが四つん這いになって、ピラミッドをどんどん上りだしました。危ないからユックリ登れと怒鳴っても、聞こえないようで、猿のように物凄いスピードで頂上目指して登っていきます。転げ落ちたら大変なことになる、との親の心配をよそに、二人はいち早く頂上に達しました。
私もあとから、やっと頂上にたどり着きました。太陽のピラミッドの写真を添付いたします。

太陽のピラミッド
太陽のピラミッド
ウシュマルのピラミッド
ウシュマルのピラミッド
急こう配の階段
急こう配の階段

 

2.ウシュマルのピラミッド

第二回目のメキシコ行は1977年くれから1978年正月にかけてのものでした。
この時の最終目的地は、当時新興リゾート地として脚光を浴び始めていた、ユカタン半島先端のカンクンでしたが、その途中で思いがけずに古代ピラミッドに出会うことになりました。
*Wikipediaから説明を抜粋してみます。
メリダの南方78kmの地点にあり、カンペチェへ向かうメキシコの高速自動車国道261号線で、メリダから110kmの地点にある。ウシュマルという地名は、オシュ=マハアルと発音されたと考えられ、マヤ語研究者の間でその由来について論争があるが、コロンブス到着以前の古いマヤ語の名称と考えられ、「三度にわたって建てられた町」という意味である。
多くの観光客の目的地となるためにウシュマルの建造物の整備や復元にたくさんの労力が注がれる一方で、細々とであるが真摯な考古学的な発掘調査や研究がなされてきた。この都市の占地が行われた時代はよくわかっていないが、人口は、現時点では概算で2万5千人ほどと推定されている。 今日目にすることのできる大多数の建造物は、だいたい紀元700年から1100年の間に建てられたものである。

この時は、最初のメキシコ訪問から4年経ち、子供たちも成長してきましたが、なにしろピラミッドがテオチワカンのものに比べてもはるかに急峻で、怖くて登れません。ピラミッドの底辺のあたりをグルグル回って見物するのが関の山でした。写真を添付します。

3.チチェン・イッツアのピラミッド

ウシュマルと同じ日にチチェン・イッツアのピラミッドを訪れました。ここは均整の取れた美しさから言ったら、これまでのピラミッドより遥かに完成度が高いものでした。
マヤの最高神ククルカン(羽毛のある蛇の姿の神)を祀るピラミッド。基底55.3メートル四方、高さ24メートル(頂上の神殿部分は6メートル)。通称の「カスティーヨ」はスペイン語で城塞の意。「ククルカンのピラミッド」、「ククルカンの神殿」とも呼ばれる。大きな9段の階層からなり、4面に各91段の急な階段が配されていて、最上段には真四角な神殿がある。ピラミッドの階段は、4面の91段を合計すると364段で、最上段の神殿の1段を足すと、丁度365段である。また1面の階層9段は階段で分断されているので合計18段となり、これらはマヤ歴の1年(18ヶ月5日)を表す。
このことから「暦のピラミッド」とも呼ばれる。北面の階段の最下段にククルカンの頭部の彫刻があり、春分の日・秋分の日に太陽が沈む時、ピラミッドは真西から照らされ階段の西側にククルカンの胴体(蛇が身をくねらせた姿)が現れ、ククルカンの降臨と呼ばれている。(Wikipediaより)

この時もその険しさに足がすくみましたが、なんとか家族5人全員が頂上を極めることができました。
一枚はガイドさんに撮ってもらった家族写真です。もう一枚はククルカンの頭で遊ぶ子供たちです。

4.ツーラ(Tula)の戦士像群

1978年に6年半のヒューストン生活を終えて、いったん帰国したしたのですが、3年後の1981年にヒューストンに合弁会社設立の話しが煮詰まり、もう一度、約1年間ヒューストンに長期出張という形で赴任することになりました。
この時に、日本側で材料の鋼管の製造担当をしたのが大阪の丸一鋼管でした。丸一も若い駐在員が単身で赴任しておりましたが、色々の経緯は長くなるので省略しますが、1981年の年末から1982年の正月にかけて、二人でメキシコ旅行に行くことになりました。ところが、メキシコに到着早々に彼が猛烈な下痢に襲われ、ホテルから一歩も出られない状態になりました。
私はやむを得ず、一人で観光に回らざるを得なくなりました。あのテオチワカンのピラミッドも再度訪問しました。そして、第一回の家族旅行の時にどうしても行きたかったTulaの戦士像群を訪問することが出来ました。

チチェン・イッツア
チチェン・イッツア
チチェン・イッツア
チチェン・イッツア
ツーラの戦士像群
ツーラの戦士像群

 


Wikipediaの説明を引用いたします。
トゥーラ・シココティトランは、メキシコ、イダルゴ州にある後古典期の遺跡。トゥーラとは、「城市」、「都市」とか「町」という意味だが、一般的にはトゥーラ・シココティトランのことを指す場合が多い。伝承上の「トゥラン」「トゥーラ」もこの遺跡のことを指していることが明らかな一方、トルテカ帝国の首都とする伝承があるが、全盛期は、10世紀後半から11世紀前半。ピラミッドとその周囲の列柱構造などが、チチェン・イッツアの「戦士の神殿」とその周囲の列柱構造と酷似していることなど建築様式の類似性が長い間指摘され、伝播したとしたらどちらが先なのか論争が繰り返されてきた。最近、チチェンについては、南方に位置する中部地域の古典期の伝統の延長線上にあるという見方が強くなっている。
この遺跡は殺伐とした荒野の中に突然立ち上がっている感じで、私が行った時も周辺に人影もありませんでした。この時もガイドに頼んで私の写真を撮ってもらいました。

説明不足になって恐縮ですが、紙数の関係で、やむを得ませんでした。
また写真も今から約40年も前のフィルム写真のため不鮮明です。ご容赦ください。

P.S.

尚、これだけの高度な文明を誇ったインディオたちは、その後どこへ消えてしまったのでしょうか。
1492年にクリストバル・コロンブスがいわゆる新大陸の発見をしてから、スペイン人達が怒涛の如くメキシコに流れ込んできました。なかでも悪名高いのがエルナン・コルテスで当時、今のメキシコシティあたりを支配していた王モテンスマを幽閉し、人々を殺戮し、略奪し、ついには国を荒廃させてしまいました。スペイン人の暴虐は、アメリカのフロリダ半島から今の中南米、西インド諸島まですべてに及び、数百万単位の無辜のインディオが絶滅させられました。詳しくは、岩波文庫の「インディアスの破壊についての簡潔な報告」をご参照ください。