園山君が先に亡くなってしまった。10年ほど前に心臓の手術をして以来、ポンプみたいなものが胸に埋められてる。心臓がいつ爆発するか分からないと言いつつ、長尺のスチールシャフトで本当に300ヤード飛ばすのを見て、こちらはあっけにとられる。激しくテニスもやっていた。強靭な意志の持ち主で、仕事をとことんよくやり、それは晩年北陸大学で教鞭を取ったり、製鉄会社が運営するアイアン・クラブでの講演会で「世界情勢」の講義をしたり忙しい老後であった。享年81才であった。

そうとは知らず、亡くなる直前、私は彼に電話して「おーい、知ってる?今、必要があって多摩川の地図を見てるんだが、「等々力」という同じ地名が川の両側にあるんだ。
それはね、昔から多摩川は水路が安定せず、曲がりくねって氾濫を繰り返していたんだよ。そこで1615年に工事して川を真直ぐにして堤防を高くした結果、水流は安定したが、等々力村は新しい流れによって真二つに割られたんだそうだ。知ってる?」君の住んでる
田園調布の足元の話だよ。 今考えると、この時点で彼の心臓は動きに問題があったのか、いつもの彼の好奇心がポンポンと跳ね返ってこなかった。それから数日後、奥さんからの
電話で園山君が亡くなったことを知らされた。

話を昔に戻そう。野城恒男、小川宇士雄、園山春一、高木恒久らが鉱石課の若手だった。ニュージーランドの砂鉄、ソ連はクリボイログの鉄鉱石と鉄マンガン鉱石、モーリタニア
の鉄鉱石、以上がニチメン鉄鋼原料部鉱石課の飯のタネだった。さらにギニア開発にも手
を伸ばしたが、鉄鋼の需給見通しの変化からギニアは見合わせた。言うまでもなく、モーリタニアもギニアもフランス語で園山君の世界だった。

1979年、石油ガス部に席を移していた私は、イランに出張原油を契約した後、パリ経由帰国する途上、フランスの国営石油会社CFPとエルフの2社を尋ね情報収集した。そこで園山君にすっかりお世話になった。エルフアキテーヌ石油会社のルシエンヌ・シュミット部長さんと昼食取りながらの意見交換、情報収集だ。園山君が次の用事があるからと、我々2人を残して先に帰って行った。シュミットさんは、「園山さんのお母さんですか、お父さんですか、フランス人は?」と訊くので、私はご両親とも日本人だと思いますよ、と答えると、彼女は自信をもって彼はフランス人ですと断言するように言った。

彼女曰く、何人もの日本人を含む外国人とあっているが、皆さんそれなりに上手にフランス語を話すのですが、園山さんは本当のフランス人の言葉で話します。だから彼のことをフランス人だと思い込んでいましたという。私はそれを聴いて、それは凄い財産だと思った。
園山君がロンドン駐在しているとき、私は既にニチメンを卒業し、英国系の会社に勤めていたが、本部のあるロンドンへの出張があった。私は園山さんに前もって連絡し、彼に奥さん入れて3人で夕食を取ろうと申し込んでおいた。約束の晩、料理店に着くと丁度奥さんの宏子さんを連れた園山君が現れた。シャフツベリー通りからちょっと左に入った処にある飾り気のないレストラン。「園山らしいな、シェフがきっとフランス人だろう」と想像した。宏子さんは綺麗に髪をセットしていて美しかった。テーブルについてエビアンのみながら、メニューに目を通した。私の場合簡単で、頼むものは何時も決まってる。前菜は「朝鮮アザミ」、主菜は「子羊の胸肉」だ。園山君が笑う。たまには他の物を注文したら如何?という顔をして。
食事が始まるとウエイターがやって来て、向こうにおられる旦那がマダムにこれを差し上げてくれとのご注文がありまして・・・。先ほどから一人で食事している40才位と思しきやや長髪の紳士から宏子夫人へのシェリー酒のプレゼントだ。彼女はそれを受け取り、その男の方を見て、グラスを目の高さまで揚げて謝意を表し、少し口に含んでから、ㇰっと呑んでニコリとされた。すると園山君が右手を挙げて、紳士に向かってほほ笑んだ。私は園山夫妻の如才ない挨拶を見て、うむむむ、やるねえと唸ってしまった。その晩2人が何を食したか、ワインは何を3人で呑んだかも全く覚えていないが、兎に角楽しい夕食であった。後で園山君に聞いたら、男はテレビにも時々出る役者さんだったらしい。因みに園山夫妻が住んでいた邸宅は、ハイドパークに向き合ったランカスターゲートの一角で、1階のサロンにはスタインウエーのグランドピアノが、どうぞ弾いて下さいと言わんばかりに置いてあった。兎に角豪華な、一等地にある立派なフラットだった。

東京での素晴らしい思い出がある。オーイ園山く~ん。今晩8時に銀座にご一緒頂けない?ラフィットご馳走するよ。いや、割り勘だな。沢井さんのバーに前から、ラフィット・ロトシルト1970年が一本飾ってあるの知ってるだろ。何年も置いてあるからタバコのヤニでラベルが茶色くなってる奴だ。俺買うよ、と沢井さんに言ったら、思い切って1万円で良いという。いやそりゃあ高いなあ、もう広告塔として償却済みだよな。じゃあ、友達一人呼んでくるから、沢井さんも一緒に割り勘に入ってよ。いいよ、と沢井さん。一人3000円で良いと仰る。園山君は私の話を聞いて、OKジョインするというので、8時にバーに一緒に着いた。沢井さんは生ハム削って待っていてくれた。3人でテーブル囲んで、ポンと長いコルクが抜けた。この音に私らの安堵感が膨れ上がった。沢井さんはコルクの匂いを嗅いでいて、納得したような表情をした。差し出されたコルクを私らも嗅いでみた。瓶を横にして置いておかないとコルクが乾いて、スカスカになってしまうのだが、これなら大丈夫だ。
沢井さん、とにかく飲もうと言って、グラスに注いで貰う。ぐるぐる回して匂を立ち上げて、おっ素晴らしい。菫色が良いね、勝手なことを言いながら口に含んだ。素晴らしいじゃないですか、沢井さん。彼も目じりを下げて喜んでいる。園山君も、なんと好いブケーだ。完璧じゃないですか、といった。何年間か知らないが、店の広告塔を務めた挙句、くたびれ果てた筈のワインが「天下のラフィット様だ。馬鹿にするでない」、と云ってるようだった。最後の色気かどうか知らぬが、何とも言えぬ高雅な薫り、忘れようにも忘れられない深みのある味わいは、天下一品であった。

園山ご夫妻が夏休みを使ってモスクワに遊びに来てくれた。ソ連が崩壊した直後だったが、ロシアの食事を褒めてくれた。園山君が教えてくれたのだが、メニューというものはそもそもロシアが考え出したものだそうだ。嘗てはフランスでも西洋のどこでも、料理は全部がテーブル一面にならぶ。それを皆で冷めないうちに食べたという。ところがロシアの貴族は、厨房から料理を、最初は前菜、続いてまた前菜などを運ばせ、昼食ならスープ。(夕食ではスープは食べない)それから魚だ、肉だという具合に順に運んでくるから、いつも温かいものを食ベられる。あるフランスの料理人がロシアに行き、ロシアで学んだ通りをフランスに帰ってやったら、それが評判になってフランス中どころか、世界中にメニューが広がって行ったんだそうだ。

彼はニチメンを定年退職すると、北陸大学の教授によばれ、広く欧州事情を教えていた。
あるとき彼に頼まれ、私も一度ロシア及び旧ソ連邦事情の講義をしたことがある。感心したのは大きなレクチャーホールが園山先生の講義がある時間は生徒で一杯になる由で、その日も満杯で立ったまま、壁に寄りかかって聴いてる生徒が何人も居た。学生たちは多くを学べる講座には殺到するのは言ってみれば当たり前なのである。園山教授の人気から私も多くを学んだ次第である。
彼は暁星高校時代、市川左團次{当代}と机を並べていたが、ご両人とも人を引き付けて離さない素晴らしい能力を持っている。

一昨年の春、最後の「欧州会」が京都であり、私は定宿をブックして参加するつもりが
園山さんから一緒に行こうと誘われ、旅は道づれと相成った。これが最後の集まりと云う
事もあってか、会場には、田淵さん、松尾さん(故人)、吉本さん、清水さん、泉さんほか大勢の懐かしい顔ぶれが集まった。そこで園山君から紹介されたのが、藤田康弘さんで、彼は第2の人生を絵画に打ち込み、既に「三軌会」の会員(なかなか成れるものではない)として活躍され、昨年も六本木の近代美術館での三軌会展に大きなラヴァ―ジュ画を出品、専門家から高い評価を得ている人だ。そういう話に私の興味は大いに掻き立てられた。
園山君のお蔭で、私は藤田さんと知り合いになれた。気さくな方で、結局二晩続けてお世話になり格別な京都を楽しんだ。その一つ、祇園での美しい宴の晩は、園山さんには忘れ
難い想い出となったであろうし、お相伴の私にとっても忘れられないものであった。
このページをお借りして、藤田さんにあらためて御礼もうし上げます。

おわり