彼の突然の訃報に接したとき私はわが目と耳を疑った。彼がいろんな病を経験してきたことや、自身の心臓にはペース・メーカーを埋め込んでいたことなどは衆知の事ではあった。しかしその彼がつい3ヶ月ほど前のことだ。さるゴルフ大会の案内に対して体調がすぐれないという理由から、一旦は欠席するという自身の通知をくつがえして、調子が回復したのでやはり参加するとメールが入ったとき、私は即座に「君はどこまで不死鳥なのか」とメールを返したものだった。その彼が不帰の人となってしまっていたとは。
いまにして思えば彼と私の間には4つほどの接点があった。
そのいずれもは会社に在籍中ではなく、お互いリタイアしたのちのことであった。そのひとつが本会誌に関連の社友会の世話人会であり、お互いこのメンバーとして彼との付き合いが始まったように思う。
そのころ私は彼が金沢のさる大学で教鞭をとっていたことを知り、私は気軽に彼にある相談をもちかけた。金沢市の観光を楽しんでみたいが、だれか適当な人を紹介してもらえないかと。驚いたことに彼は即座に「まいどさん」なる観光案内のヴォランティアー組織を紹介してくれた。聞けば彼の奥方がこの組織の運営に深くかかわって来たというではないか。というわけで、「まいどさん」のヴォランティアー氏には二度にわたって大変お世話になった。
実はわが夫婦はこれまで何回となく石川県の中島町に足を運んだのは、仲代達矢ひきいる劇団「無名塾」による公演を観劇する楽しみがあったからであった。その都度宿泊は金沢の街でお世話になっていたという次第である。
 三つ目に「自由が丘会」があった。この会は文字通り園山君の主宰になるもので、当初は元専務の河西良治さんにも自由が丘の住人として参加いただいた。会員は主に東京外大出身者(餘野木、篠塚、高木、竹内)のほか、水庫、金城といった面々で、自由が丘近辺のグルメを楽しむ趣旨の会であった。
最後になるが「商社9条の会」がある。この会はこれまで幾多となく高名な講師による講演会を開催してきた。会場で彼に会ったのはほんの数回だったし、彼と政治がらみの話をとことんやりあったという記憶もない。しかし或る時私の書いた政論を目にした彼が、私の論旨に賛同してわざわざ電話をよこしてくれたことが思い起こされる。
これを要すれば、理想としてのわが国の平和(憲法9条の堅持)は、現実の政治(日米安保体制の維持)とのバランスの中でのみ実現可能である、とする哲学者ヘーゲル風の「絶対的同一論」であり、「真理は全体である」とする私の哲学であった。
末尾ながら故人のご冥福をお祈りして筆を折りたい。   合掌