令和2年12月10日永眠されました(享年80歳)。
奥様から訃報が届き、びっくり仰天。
令和元年9月の詩吟発表会(於、イイノホール:双日本社が入る飯野ビル3F)当日、B1のレストランでの奥様、お嬢様同席でのランチが思い出されます。その発表会関連のご投稿(会報29号)をいただき、あれこれメール交換したのが、昨年10月始めでした。

想えば、五十川さんとの出会いは、1969年9月19日(金)ジャカルタ市内のチキニホスピタル。急性肝炎で入院中の山守興治さんをお見舞いしていたその時に、出張帰りの五十川さんとバッタリ。
以来、公私ともにあれこれとお世話になり、半世紀もの長いお付き合いとなりました。氏の回想録によると、「入社4年目の昭和43年6月ジャカルタへ、サマリンダ、バリックパパン、バンジャルマシン(誰が言ったか別名:東洋のベニス)、スマトラ各地で原木仕入業務を担当、更に北マルク州・オビ島でスタートした我が社の森林開発プロジェクトにも従事。」とあり、日綿実業インドネシア産原木輸入商いの黎明期であり、五十川氏はパイオニア的存在でした。

回想録に、ネシアについて”こんなところ、二度とこないぞ!ひどく、つらく、大変ななことが多かったネシア、2年間一時帰国もできず、新妻にも一度も会えず、・・・・・それなのになぜかよい想い出と感動場面が頭に残り、未だに懐かしい。結局、2度、3度と都合6年間駐在することになってしまった”とある。お会いする度に、”もう一度ネシアへ行きたいなぁ~”と、・・・
ここで、1960年代、70年代初めのインドネシアでの木材搬出(運材)について解説しますと、木材は重量物。一般的な南洋材は比重が0.5~1.05までとかなり重く、水面に浮かばず沈んでしまう丸太もあります。重機が少ない時代、ジャングル内伐採地からの搬出に「横木」を並べ”コロの原理”で滑らせる方法を考え、人力で引っ張るようになりました(写真参照)。この方法は日本国内でも一般的で、エジプトのピラミッドの石材、お城の石垣用石材運搬と同じような方法です。

やがて、ブルドーザー、スキッダー、トラック等の普及による”機械出し”が始まり、現地資本に対する伐採権獲得の為の融資など絡めて大手商社による森林開発競争が始まるようになりました。

人力出し:
人と比べると丸太の大きさがわかるネシア語でこの丸太を”カユ・クダクダ”と言います
カユ=木材 クダ=馬
機械出し:
トラックを「山大王:サンタイオン」
と言い、華僑達が改良した元米軍用トラック。

当時、なぜ筆者がジャカルタに滞在してたのかと言いますと、日綿実業入社(昭和45年)も決まり、昭和44年8月1日~10月17日、大学紛争を横目に夏休みを利用し大学(農学部林学科)同窓3名を誘い入社後に担当するであろう南洋材の産地である東マレーシア・サバ州サンダカン、インドネシアを私的に研修旅行中で、ジャカルタ滞在時に五十川さんにお目にかかったわけです。

同時に、名島憲一郎様には変お世話になりました、この紙面を借りて御礼申し上げます。
そして、昭和46年11月に筆者もジャカルタ長期出張となり、五十川さんなど諸先輩が開拓された日比ネシア3か国による「OBI島森林開発プロジェクト」に従事することになりました。

1972年帰椰の際、ジャカルタ市内アンチョールにて、ボーリングに興じた。
*木材部内地得意先からの出向者(村上さん、椿さん、品田さん)と駐事の事務員たち

五十川さんは昭和40年入社、三度のインドネシア駐在、東阪名での国内内販業務を経てニチメン総合建材㈱(現双日建材㈱)を定年退職されるまで木材畑一筋。退職後も名古屋城近くのご自宅を拠点に「森林インストラクター(別名:森の案内人)」として多くの市民を森林を案内されました。
森林と樹木と自然を大事にされた人生でした。
2011年11月9日、中部ジャワ・ソロ近くで「ドリアン」を味わう。

五十川さん、村上さん、筆者
五十川氏が、ソロ近くの「サンギラン遺跡」:
ピテカントロプス・エレクトゥス(ジャワ原人)を見たいとのことで、当時、ジャカルタ滞在中の筆者が仕事の合間に同行した。氏の最期のネシア訪問でした。

長い間、お疲れさまでした、ゆっくりとお休みください、合掌!

ー 完 ー