私は1975年(昭和50年)4月、旧日棉実業㈱に入社、同日大阪管理部に配属されました。同部は法務業務・債権の保全回収業務が主たる業務でした。私は学生時代(関西学院大学法学部法律学科)は体育会・拳法部に所属、部活動が忙しすぎて、言い訳ではありますが、殆んど、法律の勉強はしておりませんでした。
配属されたチームのリーダーは当時、部長付の山崎善平氏で、色の黒い目がぎょろりとした強面の大柄な、はっきり言って怖い方でした。チームの中に4年先輩の東裕一氏と一年先輩の金岡豊氏がいらっしゃいました。チーム総括の山崎さんの指導の下、東・金岡両先輩から法律実務等をご教示頂きました。また、入社後の半年間ほどの間、法学部卒とは名ばかりの私に就業時間中でも法律の勉強をすることを許すという山崎さんのお情けも頂きました。結果、それらのご指導・勉強が奏功、当時、大学のゼミ仲間数人とプライベートで休日に法律の勉強会をしていたのですが、まったく昔の私ではなく、仲間内でも群を抜いた法律知識に彼ら彼女達も驚いていたことを思い出します。
その後、山崎さんとは同じ和歌山県出身であること、また、二人とも酒・麻雀が大好きであることなどで、よくお相手を仰せつかりました。麻雀のメンツが揃わない日はいつも、赤ちょうちんに連れって頂き、その時はいつもふたり和歌山弁での会話でした。よく仰っていたことは、「わえ(わたし)の和中(和歌山中学 現県立高校で№1の和歌山県立桐蔭高校)時代の生徒会長が、いつも言っていた『我々若人が有する特権は、若さと意気と熱!!』という言葉は今でも、わえ、よう忘れやんわ。」が口癖でした。そして飲み代の精算時には、決まって、例えば、総額5,000円であれば、「にいちゃん!1,000円出し!わえ4,000円出すわ!これで割り勘や!といつもこの調子、この割り勘率で随分ご馳走になったものでした。
そんなある日のこと、いつものように飲みながら山崎さんが、急に何を思い出したのか「にいちゃん! おまん(きみは)、日本の最後の敵討ちが和歌山の高野山(山深い私の実家から車で約25分)であったの知っちゃあるかえ? まあ一杯飲みなあよ・・・」と、お話を続けて頂いたのですが、何分あの時から約半世紀を経過した今、詳細はあまり覚えていませんが、何だか急に山崎さんのその敵討ちの話を思い出し、ならばネット等で概略を調べてみようと思い立ちました。
その敵討ちとは、以下のような話であります。
まず、日本には「最後の仇討」と称される話が年代順ではありませんが、五つもあるらしいのです。
- ① 明治13年(1880年)12月17日、臼井六郎が両親と妹の仇である一瀬直久を東京の旧秋月藩主・黒田邸で討った。
- ② 明治4年(1871年)11月23、24日、金沢藩筆頭家老・本多政均の旧臣12名が手分けをして主君の仇として岡野悌五郎、菅野輔吉、多賀賢三郎を討った。
- ③ 明治4年(1871年)4月16日、肥後の玉名石貫で下田恒平が父の仇である入佐唯右衛門を討った。
- ④ 文久3年(1863年)6月2日、安政4年(1857年)に土佐藩士棚橋三郎に、口論の末切り捨てられた同藩士広井大六の一子岩之助が紀州藩境橋の北側で三郎を討った
- ⑤ 明治4年(1871年)2月30日、高野山麓で赤穂藩儒・村上天谷の遺子ら7名が、親の仇である西川升吉ら7名を討った。
「最後の敵討ち」については基準をどこに置くかで幾通りもの解釈が生まれるようであるが、一説に⑤が「敵討禁止令」という太政官布告が出されるきっかけとなったので、⑤の仇討ちが、「日本最後の高野の仇討ち」とも「神谷(かみや)の仇討ち」ともいわれているようである。山崎さんが私に語ってくれたのはまさにこの話でした。
ことの起こりは、9年前の文久2年(1862年)の赤穂藩内の争いである。赤穂藩主・森家の家督争いが原因で、同年12月9日、赤穂藩家老・執政の森主税(ちから)と参政の村上真輔が、尊王攘夷派の藩士、吉田、西川ら13人に暗殺された。その後、藩内の勢力争いも絡んで、村上一族が閉門追放され、遺児らはこのため仇討ちの決心を固めたと言われている。
その後、襲撃した吉田らは脱藩し、長州藩に身を寄せていたが、長州藩は吉田ら7名に赤穂藩への帰参を命じた。赤穂藩は、吉田、西川らの処置に困り、高野山に登って歴代藩主の廟所と高野山釈迦門院の守り役を命じた。殺生禁断の高野山に入山させれば、村上一族の復讐から逃れられると判断した為といわれている。
村上一族は、仇討ち事件の当日朝、河根宿の本陣・中屋に泊まり、吉田、西川たちを待ち伏せした。そして村上方7名が、吉田方7名を討ち、本懐を遂げて、直轄の五條県庁(奈良県五條市)に自首した。村上方の処罰は、一審で全員死罪となったが、最終的に西郷隆盛の計らいにより明治6年(1873年)2月7日に罪一等を減じられ、「禁固10年」又は「准流10年」の判決となった。
そして、この事件が直接の原因で、明治6年2月に太政官布告によって、「敵討禁止令」が出された。
日本で最も有名な仇討ちが元禄時代に赤穂藩士によって行われ、日本最後の敵討ちがやはり赤穂藩士であったことは、何か因縁を感じて興味深いものがあります。
墓所は、和歌山県高野町神谷にある。仇討ちの地の解説板から数十メートル高野山寄りに建てられており「志士高野の殉難」と記されているようである。南海高野線紀伊神谷駅下車、徒歩約20分の場所にあるそうである。
以上が、山崎さんが私に教えてくれた話の概略でありますが、その後、会社も営業部門の人間を増やすべく、営業部・非営業部の所謂、直間比率を見直すとして、先ず東先輩が営業部(大阪船舶部)へ、私も1980年(昭和55年)東京の繊維・特需部へ異動となりました。
山崎さんはもともと頭の切れ味すごく、博覧強記の人物で、繊維の売り子だった山崎さんが法務の方は独学で懸命に勉強され、やがて法務部長として東京転勤となり、東京では何度か一献傾けさせて頂いた記憶もありますが、その後、無事定年を迎えられ、和歌山で余生をお過ごしになられることとなりました。
しかし、それも束の間、病気で入院されたというお話を聞き、その後、容態が思わしくなくなってきたとのことで、私が帰省しているタイミングに合わせて頂き、東・金岡両先輩と3人で入院先の和歌山県立医大へお見舞いに行かせて頂きました。その時、山崎さんは私達3人を見るや、体調が悪かったのか、びっくりしたのか、大声で「おまんら、最悪の時に来たなぁ・・・!」と仰った後、だんだん落ち着かれ、やがて昔話に花が咲き、その内、私達3人が余程懐かしかったのか、目を潤ませ喜んでくれました。
その後まもなく、まだまだ若くして山崎さんは帰らぬ人となってしまいました。本当に思い出深き素晴らしい上司でした。
山崎さんの御霊がいつまでも安らかであれと祈りつつ、拙文を寄稿させて頂きます。
以上
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