旧い話で恐縮ですが、しばしお耳を拝借させていただきます。
私が日綿実業(株)の第十二代(1966年5月ご就任)社長、神林正教さんと初めて親しくお会いしたのは、1970年3月から開催されたEXPO’70の千里会場。私はまだ入社8年目の若手社員、当時三和銀行が企業グループ結成のためにグループ名“みどり会”を中心とする企業館“みどり館”の総務部長としてニチメンから出向していました。
前日の本社秘書課からの連絡通り、神林社長はお独りで飄然とみどり館に現れました。ニコニコした笑顔で「君が吉本君か、ご苦労様。今日一日よろしく頼むよ」とひと言。
私にとってニチメンの社長は雲の上の人、いささか戸惑いとその対応に躊躇しつつ、そこは親父ほどの年齢差、腹をくくり歓迎のお茶を一杯お出しして一日の万博会場の散策をスタート。行列をなす有名館の数々を巡り、そこはみどり館の総務部長の顔パスでスイスイと館内見学。場内モノレールをフルに使い、知り尽くしている広域な会場を効率的にご案内し、ランチはお好みの人気店で会食等々、夕方4時頃までたっぷり見学を楽しんでもらい、ご機嫌よく「有難う」のひと言を残されてお別れしました。
それから数日後、当時人事担当の西村常務から「すぐに出社するように」との指示。
「何か“へま”をしたかな?」との不安に駆られながら翌日本社役員応接室に出向いたところ、その場で西村常務から唐突に「君は帰社後、社長室秘書課に勤務し、神林社長の秘書をして貰う。これは会社の辞令で、断れば会社を辞めてもらうことになる」との厳命(と私には聞こえた)。入社後8年間、建設部にて営業一本で外を走り回り、社長室はもとより役員の顔すら知らない社員がいきなり秘書課勤務、断ったら辞職となれば頭を縦に振らざるを得ず、その場で隣の社長室に案内されました。そこでは社長ご本人が例のニコニコ笑顔で「吉本君、頼むわな」とひと言で終わり。このとき、何故か親父に言われている様な気分になったのを覚えています。
ここから5年余の間、社長と秘書(親父と息子)との関係が始まりました。恐らく神林さんは何も知らないこの若者を自分が選択したことへの後悔と幾ばくかの不安を感じられていたことでしょう。この日から神林社長の厳しい人生特訓が始まり、私にとってはサラリーマン、いや人間形成の貴重な時を刻むことになりました。
ある日、「吉本君、如水会(一橋大学卒業生の同窓会)の案内に対する返事を出してくれましたか?」と聞かれ、「はい、欠席と秘書課から返事しました」と伝えたところ、「これ切手代」と手渡されドキリ。当たり前のように秘書課の切手を使用していたことに気づかれたのか、公私混同に対する厳しい姿勢を問われた心境でした。また、京都で開催された日豪経済委員会にご夫人同伴で行かれた際は、わざわざ神林夫人を電車で京都駅まで呼び寄せてから社長車にピックアップされ、ご自宅までお迎えに行くことを許されませんでした。
当時は、土曜日の勤務は午前中だけで、お昼になると神林さんは「では、吉本君よろしく」と帰宅。私が午後3時頃まで勤務してから、業務の内容や連絡事項を携えて芦屋ご自宅マンションを訪ねると、神林さんはこたつに入りながら午前中に持ち帰った新聞の切り抜きを背を丸くしながら読んでおられました(当時は5大紙の主要な関係記事を調査部が切り抜き、毎日社長に提示していた)。この姿を見て、私が当時思い描いていたサラリーマントップの煌びやかな私生活のイメージとの差に愕然としたものです。今振り返れば、これが社長の有り姿だったのかもしれません。
またある時、社長に「役員応接室に何か立派な絵を購入したいのですが」と持ち掛けたところ(当時はやっと復配も出来、来客も多い役員室の壁には模写の絵が掛けてあった)、「吉本君、君は本物と模写の絵との見分けがつくかね。来客の大半の人が役員応接室の絵を模写画とみる人はいないよ、無駄なことはやめなさい」との返答で終わり。
神林夫人は素晴らしい鑑識眼をお持ちの方でした。特に中国の美術工芸には詳しく、しばしば関西の古代中国の工芸美術展にお供しましたが、本物を前にご夫人がその工芸品の由来と内容を詳しく説明されると、社長は「うん」「ほう」「そう」と頷きながら熱心に聞き入っておられ、私の及ぶべくもないご両人の本物志向の姿を目の当たりにしました。
神林社長は1966年5月に、福井‐矢野体制で無配転落した日綿実業を立て直すべく、突然ニューヨークから呼び戻され(当時常務でニューヨークのトップ)、青天霹靂の人事で、社長業務を任されました。平時の社長就任の場合は、前任者の十分な指導と薫陶を得てその道を進むのが常ですが、いきなり無配転落の会社の再建を託され、その前任者は既に社外に転出(福井前社長は中小企業公団の理事長として既に転出)という状況下で、社長としての“王道”を自ら作り上げねばならない宿命を初めから負わされておられました。神林社長の経営の本質は、徹底した合理主義を追求することの一語に尽きると思われます。社長がニチメンに入社されて以来常に持ち続け磨き上げられて来られたこの思想は、性格的な持ち駒でもあり、公私に渡る中で自然に培われたものであるように思われます。
当時三和銀行頭取の芦屋の豪邸に所用で訪問し、その家屋の豪華さを神林さんに話した際は、「吉本君、人間が住むところは、自分の年齢と環境と共に状況に最もマッチングしたものが一番だよ。豪華なものは全く不要」とのひと言。夏は信州の小さい山小屋、冬は宮崎の海の家、本宅は息子夫婦に譲り、ご自身は夫人と共にマンションに住み、二部屋の壁をぶち抜いた広い生活空間を作り、そこに最も住みやすい住居を見出されており、その合理的な生活様式は、正に神林さんの合理主義の真骨頂でした。
もう一つ、神林社長の業務に於ける合理主義の典型的なものをご紹介します。社長室で役員や社員から業務の報告を聞く際、「報告は必ず一枚にまとめること」と強く指示されていました。それでも、社長の前に分厚い報告書を提出し、説明を口頭でする人が絶えません。報告者は立ったままでの口頭説明、社長はひじ掛けイスに腕を乗せ、記憶すべき重要な数字をおもむろに薬指でなぞりながらその場で覚え、報告者が退室してから更にデスク上の日めくりカレンダーに数字だけを乱雑に書き込む。このやり方で経営の重要数字を頭に叩き込む、特殊な技量をお持ちでした。従って、ご自身がお書きになったメモらしきものを見かけたことがありませんでした。報告者の役員から折りに触れ「社長は本当に分かっているのかな」と問われると、私はその役員に「社長の右薬指は動いていましたか?」と尋ね、「動いていれば、貴方の報告は社長の頭にしっかり入ってますよ」とよく言ったものです。分厚い報告書は、必ず「吉本君、これ読んでおきなさい」と私に渡されました。これが大変、訳のわからない内容でも社長からいつ質問されるかわからないので、真面目にしっかり読んでいました。このことが私のその後の会社業務の大きな糧になりました。
あっという間に、5年が経過。秘書課長に着任時、西村常務同席で「5年が経ったら必ず君の希望するところに出してやる」との約束通り、私は神林社長の門下生としての第一歩を、米国総支配人山田常務の本社スタッフとしてニューヨークに赴任することになりました。私の86年の人生の中で、サラリーマンとしての一時期を神林正教さんと言う素晴らしい人生の師匠に出会い、その薫陶を受けることが出来たことは、誠に人生最大の幸運の一語に尽きます。
その後の私のニチメンでの社歴は、欧州ニチメンロンドンに5年、米国ニチメンニューヨークに6年といずれも当時の欧州ニチメン、米国ニチメンの総支配人傘下のスタッフとして海外各店での地域の営業戦略、統括業務に携わって来ましたが、いずれの場所でも、かつての神林社長の指導と薫陶が大きな糧となっていたことは間違いないです。
その間、ボスとして身近でお付き合いさせていただいた諸先輩諸氏との会話が今も懐かしく思い出されます。ここでいくつかご紹介しておきます。
神林正教さん 「あのなぁ、それはこうだよ、吉本君」
雄谷芳夫さん 「吉本君、この数字をもっと詰めよう」
田中義巳さん 「吉本君、あいつドツボにハマりよったよ、何とかしなきゃ」
野村喜久雄さん 「そうでっしゃろか。もう少し考えましょう、吉本さん」
丸山修作さん 「よし!これで決まった。吉本君」
渡利 陽さん 「うん、うん、わかりました。お願いします、吉本さん」
最後に、1970年にわたしが建設部から秘書課に着任したのと同時期に、木材部から社長室の統括課に着任された故大山弘雄(2019年12月逝去)さんは、私の敬友でした。彼も、木材部から得体の知れない社長室に着任し、日々の悩みや愚痴をお互いに相談したものです。そして私がニチメンでのすべての海外業務を終えた1991年7月にニューヨークから再び社長室に帰国した時、彼はニチメン社長室の主として全てを切り盛りしておられ、「ご苦労さん」と温かく私を迎え入れてくれました。それから2年足らず、私が第二の人生に転出するまでの間、一緒に仕事をした思い出が今も鮮明に思い出されます。
神林正教さんの思い出と共に、大山弘雄さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
以上
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