玄奘三蔵法師と有縁の華林山慈恩寺(さいたま市岩槻区)と薬師寺(奈良市)に、法師の頭頂骨が分骨奉安されております。いずれも、筆者現住所及び奈良市の筆者生家からほぼ同じ距離(直線約6㌔)にある極めて身近な名刹であります。これも何かの縁と考え諸々の文献を参考に調べてみました。
2014年2月11日、寒い日でした。日光御成り街道近くの「慈恩寺」を参拝した際、本堂から200mほど離れた小高い丘に十三層の石塔が見え、訪ねると、玄奘塔、大唐編覚玄奘三蔵法師と記した大きな幟、玄奘立像、西域・天竺の地図、霊骨奉安由来説明板がありました。
一方、玄奘塔を守る管理人の方から、「当寺の法師ご霊骨が薬師寺の高田孔胤管主からの要請があって、奈良の方に分骨されてますよ」と教えていただいた。
一方、筆者が2008年5月、中国洛陽のAD68年建立の中国最古の名刹「白馬寺」参拝時に、寺のガイドの”玄奘三蔵はこの寺で学ばれ、当寺からインドへ旅立たれたのですよ。 空海さん(入唐803~806年)も当寺で修業されたんですよ” との説明を思い出した。
今回、三蔵法師の事を調べてみますと、インドへの出発地は長安だとする説が多いのですが、あの時に感じた寺境内の佇まい、雰囲気など懐古してみると、このガイド説明が正しいような気がします。
なぜ、岩槻の慈恩寺に三蔵法師の霊骨が?
慈恩寺開祖の慈覚大師(円仁:えんにん、794年~864年)が、海難により2回も渡航失敗したが、838年に最後の遣唐使の一員としてして入唐、玄奘が天竺仏典の翻訳に従事した大慈恩寺において求法したことが三蔵法師との有縁となっている。
玄奘三蔵法師について
西暦604年河南省陳留県生まれ、俗姓:陳禕、父〈慧)は古書研究家でその四男坊、614年浄土寺において十歳で得度、622年成都にて受戒。 629年「天竺求法の旅」へ、645年長安帰着。
帰朝後、長安(現西安)大慈恩寺住職となり、「大唐西域記」、「大般若経」等の訳出に従事。
- 注)写経のお手本である「般若心軽」(般若波羅蜜多心経)は、玄奘さんが天竺からの帰朝後の649年に翻訳したものであります。
- 注)玄奘に直接会った日本僧侶:奈良元興寺の道昭(629~700年)で、653年遣唐使の一員として入唐、直接に8年間教えを受けている。
参考までに、中国語で、玄奘三蔵法師は、「xuan zang san zang fa shi」、般若波羅蜜多心経は、「bo re bo luo mi duo zin jing」と発音表記(ピンイン)します。
霊骨大移動
664年2月、法師は長安の玉華宮(玄宗皇帝離宮)にて遷化され、大慈恩寺で告別式、長安東郊に埋葬、1027年南京天禧寺へ移葬、1332年天禧寺の南丘に奉環。1686年天禧寺南丘三塔へ移す。
この塔は幾多の戦乱で壊され、長期間ご霊骨の所在が不明となる。1942年12月南京占領中の日本軍が南丘の蒋介石軍兵舎跡近くで石棺を発見、専門家の鑑定により「玄奘の骨蓋骨を納めた石棺」であることが確認され、17個の頭蓋骨などが汪精衛(汪兆銘)南京国民政府の管理下に置かれた。
発掘された石棺の中には「演化大師が戦乱から逃れる為にご霊骨を南京へ運んだ」旨の記述があり、長安から南京へ移された理由が日中の専門家により確認された。注、演化大師の経歴等は不明です。
日本側は「分骨して日本国内で供養し、三蔵法師の功績を称えたい」と交渉結果、汪政権、蒋介石双方の同意を得て、東京芝増上寺に安置したが、戦時疎開の為に蕨市三学院に移された。
1944年12月、岩槻慈恩寺に奉安された。
1950年、慈恩寺「玄奘三蔵霊骨塔」に納骨。
1955年、慈恩寺から台湾玄奘寺へ分骨奉安。
1980年、慈恩寺から奈良薬師寺「玄奘三蔵院」へ分骨奉安。
薬師寺について
法相宗大本山、前述の玄奘直弟子の道昭和尚が玄奘から学んだ法相宗(ほっそうしゅう)を日本へ伝えたのが分骨された由来とされている。
日本での法相宗は玄奘の弟子の慈恩大師(中国僧)が宗祖とされている。
尚、興福寺も法相宗大本山である。
現在確認されているご霊骨奉安地は、北京法源寺、北京北海公園、南京霊谷寺、南京覆舟山、南京博物院、上海法蔵寺、成都文殊院、韻関南華寺、インド玄奘学院、西安興教寺、西安大慈恩寺、台湾玄奘寺、と慈恩寺、薬師寺のの14ヶ所である。 お近くに行かれた際はお詣りください。
三蔵法師とは、固有名詞でなく「普通名詞」である。
インド仏教界の尊称の漢訳語で、「①経蔵=釈迦の教え」「②律蔵=仏教者の守るべき戒律」
「③論蔵=経と律の解釈書・注釈書」の三蔵を究めた僧侶+仏教経典翻訳僧の尊称。
主な三蔵法師: 天竺から帰朝後に称号を授与された玄奘三蔵さん以外に
- *最初の三蔵法師 =西域層の鳩摩羅什(クマラジュウ)三蔵(343年~413年)
以降、十数僧が三蔵を称している。 注)人数については諸説があり特定は困難。 - *不空三蔵(705~774年)セイロン僧で、空海の師、「月曜、火曜など曜日」の名付け親らしい。
- 注)「曜日」は平安時代に空海が持帰った由なので、不空三蔵由来説も事実かもしれません。
- *日本人三蔵:「霊仙三蔵」(759~827年)と称し、興福寺僧である。最澄、空海と共に入唐、般若三蔵(733~802年)に学び、唐の憲宗皇帝から三蔵の称号を授与されている。
- 注)滋賀県米原市醒井に「霊仙三蔵記念堂」があります。ご興味ある方はお訪ねください。
おわり
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