私が現住する老人ホームで今春の川柳コンクールがあり、入居者のお一人が最多得票を得て入選された。いわく、「モメゴトは そだねそだねで 丸くなり」。現実はウクライナ戦争が長引いてモメゴトが絶えないが、ほっとした一瞬であった。
 北京オリンピックでの日本女子カーリング・チームの活躍の裏には、人工皮革クラリーノの手袋があったと、テレビ放送で知った。このクラリーノについては、私の東京勤務時代の思い出がある。

 東京ニチメンの日本橋分室は東京駅にも丸善・高島屋にも近く、すばらしい立地にあった。岩井産業から譲り受けたそうである。クラレやオンワード樫山など、多くの繊維メーカー・繊維商社のビルにも近かった。日本橋分室から日本橋方面に向かって少し行くと、三州屋という大衆食堂があった。見本橋分室の地下にも社員食堂があったが、社員は昼食時には外へ出かけることが多く、「砂場」のそばは人気があったが、私は靴を脱いで座る三州屋を愛用していた。
 ある日三州屋で昼食して帰り、午後の仕事に取りかかったとたん、三州屋から「お靴を間違えておられませんか。間違えておられるなら、至急クラレのKさんにお返し下さい」と電話があった。あわてて靴を見ると、牛皮製の軽くてりっぱな、私には似合わない靴が私の足に付いていた。すぐに手ぶらでその靴を履いてクラレに向かい、Kさんの職場へ靴を返しに行った。Kさんは私が靴を返すとすぐ、ニコニコしながら職場の机の下に大切に保管してあった私の靴を持ってきて返してくれた。
 Kさんが終始ニコニコして私が何のお叱りも受けなかったのは、私の靴がクラリーノだったからかもしれない。当時クラリーノは、一世を風靡して流行したサラリーマンたちの愛用の靴であった。私もクラリーノを履いて鼻が高くなり、花形サラリーマンになったつもりで隔週末に東海道五十三次を新幹線でぶっ飛ばして、大阪と日本橋を往復していた。若き日の楽しい思い出である。このような思い出を作ってくれたニチメンへの感謝でもある。

 (2022.3.20)