氏は筆者入社(昭和45年)以来、木材本部南洋材部隊、ネシア会、一木会:木材本部OB会、社友会と半世紀にわたり”商い道、人の道”のご指導をいただいた思い出深い先輩であり、師でした。
また、南洋材業界(国内外)では、同業他社、船会社からは”切れ者”と恐れられ、内外の得意先からは”知恵袋で頼りがいのある方”だったと、多くの方々からの言葉が記憶に残っております。
筆者はインドネシア・マルク州OBI島森林開発、及びサンダカン駐在員事務所(東マレーシア サバ州)及び東京木材第一部で白石さんとご一緒させていただきましたが、ここではOBI島での思い出に絞りたいと思います。 厳しさと優しさ、加えて気遣いを併せ持たれた方でした。
オビ島森林開発プロジェクト概要
開発期間:1970年6月オペレーション開始~1973年12月終了 総輸出数量:約30万M3
日本・インドネシア・フィリピン3ヶ国参加の森林開発事業。・・・(人数)は現場駐在
- OBI島は、東西約80Km南北約44Km、鳥取県を一回り小さくしたような島
- ニチメン(7名):資金全額・機材・船舶などを提供、現場経営、輸出業務と原木引取り
- インドネシア(約700名):労働力(伐採・運搬・船員など一般作業)提供、警護警察など
- 元知事のポレコ社バラムリ社長が伐採権約5万ヘクタールを取得し、我社に協力要請
- 現場リーダーは、大学卒で紳士のモハマッドさん
- フィリピン(約200名):現場全般、重機運転、造材指導、本船積込指導、医療など
- フィリピン原木サプライヤー(カスティリオ氏+ディオニシオ氏)配下の技術者達
- 島南部の海岸近くにベースキャンプを設営。
キャンプには、原木置場(水面及び土場)、自家発電所、製材工場、重機などメンテ工場、 医院(外科、内科、歯科)、燃料タンク、簡易埠頭(所有のタグボートなど3隻を係留)、 運動広場、モスク、教会、野菜畑、尚、全ての宿舎は自前の丸太を製材して自力建設。
- テルナテにて輸出ネゴ代金を得た後、メナドなどにて燃料、食糧、日用品、機械部品等を調達、トランク満載の給料用ルピア現金(当時はほぼ1ルピア/1円)を本船でキャンプへの輸送
- このオビ島は隆起サンゴ礁で石灰岩がゴロゴロしており、運材、石噛み、には苦労しました。
- 通信は、当初は本船無線、ラジオ放送を利用、小生赴任時にSSB(長距離無線、特に2,300キロ離れたジャカルタHQとの諸連絡(距離:約2,300キロ)
参考: 同時期に同島で安宅産業、丸紅がほぼ同規模のプロジェクトを展開。 近くのブル島では三井物産が、モンゴレ・タリアブ島では三菱商事がそれぞれ森林開発をしておりました。
1971年11月末、筆者がOBI島赴任 前任者:西田八洲男さん
1972年3月19日 白石さん、原田三郎常務木材本部長とOBI島へ →現場チーフは鈴木松男さん
1972年7月、白石さんオビ島着任、鈴木松男チーフと交代 以降、1973年12月の撤退まで現場運営の総責任者であり、事業全般、南洋材知識、伐採、運材、貯木、格付、重機など機材、本船荷役、貿易実務、人事管理、労務管理など豊富な経験を生かされた最適任者でした。
振り返れば、下記の先輩方(敬称略)が本プロジェクト(現地)でご苦労されました。
高木さん 加藤一葉 五十川暉夫 森田忠利 鈴木松男 西田八洲男 大山弘雄 白石哲也
太田昌秀 森川博 南長久さん 山下さん 宍戸由卓さん 筆者
ざっと半世紀が経過し、残念ながら、森川さん、宍戸さん、筆者を除き他界されました。
もっと長生きしてほしかったです。
ゆっくりとお休みください。 合掌 !
原田さん、鈴木さん。。懐かしい方々の姿拝見。南洋材で大々的にガンバつたなと再認識しました。