22年8月15日(月)放映の「NHKスペシャル ビルマ絶望の戦場」の番組制作に先立ち、NHKさんから双日㈱広報部経由、ニチメン東京社友会に、取材協力の依頼がありました。
注)10月16日NHKBS1にて「ビルマ絶望の戦場」完全版がロングバージョンで再放映された。
掲題”商社マンかく戦えり”への寄稿者(後述)の体験談を題材の一つにしたいので、ご本人、或いはご遺族を紹介してもらえないかとの要請でありました。
NHKによると、本回顧録は「国会図書館」で閲覧したが借出しは不可で、コピーも一部しかできず云々との説明がありましたので、まずは原本を探す事に注力し、ニチメン100年誌に本回顧録の概略があり、その中に「ビルマ赴任途次、米潜水艦により撃沈された大洋丸で遭難された三分一克己様」を発見、三分一克美様のお父上ではなかろうかと考え、お電話させていただいた結果、この回顧録をお持ちとの事で、拝借し、双日㈱広報部あて転送、全頁コピー(3部)をお願いしたところ、快く受けていただき、①双日㈱広報部、②NHK担当ディレクター、③筆者の手元、にて保管しております。
尚、③は会員様の閲覧用として社友会事務室に保管する予定です。
社友会会員各位には、寄稿者、或いは登場人物をご存じの方もおられるのではと考え、会報の紙面をお借りして、回顧録概要を紹介させていただくことに致しました。
手持ちの回顧録は昭和54年6月1日改版で、A5サイズ、全337頁、ビルマ戦線での日綿實業職員の体験談が写真と共に状況(戦況)に応じて、1章~10章に分類して紹介されております。
発行者は松岡啓一氏(当時のラングン支店長)編纂担当は山中滋也氏、白瀬正氏、田中康夫氏。
「回顧録」寄稿者(敬称略 順不同):
- 松岡啓一
- 石橋鎮雄
- 秀島司馬三郎
- 板谷樹吉
- 柴田専吾
- 黒江龍三
- 鈴木太一
- 堀斉太郎
- 税所郡三
- 臼井 等
- 林 正男
- 山中滋也
- 阿多宏太郎
- 山下 林
- 新福佑信
- 板倉伊八
- 白瀬 正
- 新居幸雄
- 高堰喜久太郎
- 田中康夫
- 平田鋭之
- 川野洋三
- 大西喜也
- 松本希道
- 甲 重信
- 高見永二
- 石川幸造
- 吉岡辰夫
注、各氏の寄稿文は、タイトルを印で示し、一部の方につき要約(*印)を書き記しました。
序、戦時中、ビルマにおいて、物資の生産、集荷等に従事しておられた商社の諸兄が、戦勢急迫の際、突如軍務に就き、心身の一切を祖国に献げて悪戦苦闘されました勲業、分けても戦没烈士の御偉烈を偲び、至高の敬意を表させていただきます。櫻井省三(元第二八軍々司令官陸軍中将)前書、大戦中、日綿がビルマへ派遣した186名(現地除隊雇用者数名を含む)のうち、52名の有能の士が会社の為日本の為に戦死(病死2名を含む)されたこと遺憾の極みで、実に惜しみても余りあり、ご遺族のご心中を察すれば断腸の思いがある。-中略ー故にご遺族及び生還者の家族、子孫にありのままの状況を伝え、戦争が如何に悲惨なものであるか、平和が如何に尊いものであるかを知って貰いたい念願から生還者の有志が集い、執筆と醵金をして回顧録を作成した次第である。
松岡啓一
第一章 日本綿花ビルマへのり出す
1918年(大正7年)、ラングン出張所開設、綿花・米・雑穀を取り扱う。1920年支店に昇格、以降繰り綿工場、精米所、製油所なども経営。当時の日本綿花は大半が海外勤務、入社時に「海外に勤務することを厭いません」との誓約書を入れていた由。
- ビルマ綿の取り扱い
- 初めて見るラングン
- しいたげられた国民
- 日露戦争以降日本に敬意を懐く
- 仏の教えに素直な国民
- 綿屋が米にも手を出す
- 大正12年ごろのビルマ
- 人情家髭将軍
- ビルマ米の大量輸入
- 家庭を犠牲にして再任
- 日本の諜報機関
*ある日、新任の若い社員がラングン支店に赴任してきた、部屋へ入るとカイゼル髭将軍が最も立派に見えたので、髭将軍こと谷垣琢磨の前にすすみ、深々と頭を下げて着任の挨拶をした。将軍は「ご苦労!」と返した。支店長は苦虫を嚙み潰した。ー中略ー 若い社員を可愛がり面倒も見た将軍は昭和19年ビルマ北辺の激戦において、将軍らしく戦い,散華された模様。
第2章 宣戦の詔勅と共に
- 脱出遅れて囚われの身となる
- ペグ―進撃
- シッタン河を渡る
- 表彰状に輝いた森田丹
- 捕虜となって
- 三たびビルマで働く運命
- 大洋丸沈み 東シナ海に泳ぐ
- 空襲をうく
*昭和16年開戦前に多数の駐在員はビルマを去ったが、残った3名が12月8日未明に抑留されることとなり、ラングン北方約10キロにあるインセン監獄へ送られた。
*昭和17年1月31日モールメンを占領(第55師団) 3月8日ラングン占領 5月1日マンダレー占領
*森田丹は第55師団に属し、乗馬でしばしば師団の先頭に立ち、ビルマ領に入るや、流暢なビルマ語通訳にあたるのみならず、地理地形に明るく軍にとって有利な進路を案内し、師団の進撃に多大の功績を残した。ー中略ー これらの功績に対し竹内師団長は表彰状を贈り、嘱託を解いた。
*昭和17年5月、社命によりビルマへ出発する事になった。当時、マネさん(豊間根篤行)が「こういう貿易会社に入ったら、一日も早く海外に出なきゃ駄目だよ」と言ってくれた。
船は大洋丸、日綿総数20名の他、軍人軍属数百名が宇品から乗船した。我々青年社員はデッキ上の2等喫煙室、偉い方々は上等の船室、これが運命の岐路となる。ー中略ー 東シナ海で敵潜水艦の魚雷で直撃された。船室の偉い人達は即死、或いは船室に閉じこめられ亡くなったらしい。デッキ上の私達は容易に脱出できた。忘れもしない5月8日午後7時ごろだった。
20名のうち生き残ったのは私を含めてわずか7名であった。 ー後略ー
第3章 日綿かく働けり
- ビルマの産業を指導する
- カナントー精米所
- 米穀組合を担当して
- 美人のナンシー
- 日本ビルマ木材組合
- 紡織娘と船大工
- ビタミン栄養食が生まれる
- 車と兵器の工場長
- 迫撃砲弾の外核を製造する
- 丸永商店の業務
- ふりかけ食を作る
新福さんが通ればナンシーが手を振る。父が英緬のハーフで母親がビルマ人。-中略ー ナンシーは今で言う若い日の「雪村いずみ」のように可愛い顔の娘さんだそうである。ー後略ー
ビルマのチーク材は昔も今も船舶用や家具用の一級品としてビルマでは米に次ぐ財産であった。
第4章 地方における活躍
- モールメンでの事業
- マンダレー米穀組合
- インパールへの作戦基地シュエボー店を開く
- タウンヂ―の丸永
- メイチラ県の綿作地の模様
- 馬上ゆたかな美少年
- 強盗に護衛される
- ビルマのお正月(水祭り)
- 私を食べたがった山岳部族の子
- モールメンヒルの月
*タウンヂ―丸永:鉄工所、製薬所、乾燥野菜製造、製塩、生鮮野菜を軍へ納入、軍用道路工事、養鶏、陶器製造、自動車用バッテリー製造、など。筆者注:昭和29年、丸永と日綿は合併
*昭和18年8月1日、新興ビルマ国独立
*昭和19年3月8日、インパール侵攻作戦開始
*痒いと思ったら足の甲に山蛭が何匹も吸付いてる。急いで指で取り除こうとするが、ぬるぬるしてなかなか採れない。小枝で擦落としたら血が滲み出た。濡れた足の甲が條となって血の跡がついた。
*ツウ・ガ・チドウ サーデンデー =(彼の脚を食べたい)
第5章 戦況暗き日
- インパールよりの敗退
- 貨物廠の嘱託として前線へ
- 内海清君仆れる
- タンビザヤでの初年兵教育
- インパール作戦失敗よりイラワヂ会戦
- 空爆を冒して
- 車を焼かれる
- マンダレーよりの脱出
- マウント・バッテン将軍からの招待状
- 一足先にサイゴンへ
*昭和19年4月6日コヒマ占領、インパール北方10㌔まで肉迫するも、英軍・中国軍反撃開始
*昭和19年7月5日インパール作戦中止命令、インパールより敗退。雨季、物資不足で困窮の極み。
*バッテン将軍:「日本軍の皆さん、暫く戦いをやめ話を聞いてください。・・・”アイサレンダー”と呼んで只今こちらにおいで。連合軍は捕虜として手厚く君を迎えます・・・、放送を終わります。こんどは壕深くにかくれてください 砲撃にうつります」
第6章 戦火の中に咲いた花
- コメの町 チョンマゲ
- 日本語を話す娘
- あわただしいラングン
- 籾輸送会議
- 妹 マバイ
- 招集令来る
*・・・寒気に襲われ、ガタガタ震え、毛布を三枚被ってもなお寒い。次に身体中が燃え上ってきて、全身から汗がタラタラ流れ出す。検温すると42度。インド人の医者曰く、”マラリアです”と言いながら貴重な薬を注射してくれた。頭は割れるように痛い。息は火焔のようである。あらゆる関節が表現できぬほど痛い。マバイがタオルを絞って頭に乗せ、あちこちをマッサージしてくれた。
日暮れ近く、やっと熱が下がった。翌日は不思議と平熱になりケロリとした。・・・・
*ビルマの雨季:降り続く雨で視界が霞み遠方の続く峰に白く浮かぶ仏塔(パゴダ)、群れた水牛が水田に漬かり、背に2羽の白鷺を宿して水面にその姿を映している。
第7章 末期的症状に陥って
- ビルマ軍反乱す
- 指川侃さん殺さる
- 大西京さんとの別れ
- 招集令状を受ける
- 老少尉軍服を着る
- ラングン市内警備
- 英印軍既にトングーに入る
- シッタン河を泳ぎ渡る
- さらばラングンよ
- 兵器廠と共に撤退
- 忘れじ4月28日
- 偕行社に火をつけて
- 英軍捕虜にこっそりと
*昭和20年4月23日、日本人婦女子、ビルマ要人達、非戦闘部隊は先を争って、陸路、海路でモールメンへ、日綿では山田文治、高橋、森貞、森田、平田、池田、北島などは無事に、水野は負傷したものの無事だった。
*昭和20年4月26日、ラングンに残っていた最後の参謀が飛行機でモールメンへ転進。参謀を乗せた飛行機は兵舎上空を3周して東方指して消えていった。これが友軍機の見納めになろうとは思いもよらぬことであった。方面軍は商社部隊をしてラングンを死守せしめようと、旅団長松井少将に対して、「旅団は速やかにラングンに反転して同地を死守すべし」と、・・・・”部下を残し、参謀逃亡”と解釈される。併し、5月9日に死守の任務を解いた由である。
第8章 モールメンへの死の転進
- 苦難の行軍始まる
- デルタよりの転進
- ラングンへ斥候を放つ
- ラングン市内へ潜入
- モービ飛行場での交戦
- 商社マン グルカ兵と戦う
- 機関銃で弔い合戦
- スパイを殺せ
- 食える植物を探す
- 自爆第一号
- 豪雨の中を
- 日綿社員次々に仆れる
- 雨季の転進
*二等兵の死」九州佐賀県出身の若者、”隊長殿一寸便所へ行きます”と言って裏山に上がり、いつまでも戻らないので、心配しておったところ、山上で手榴弾が爆発する音が聞こえた。山へ駆け上がったところ、胴体が真っ二つに飛び散り、無残な状態・・・
*ビルマの竹は日本の孟宗竹の3~4倍の太さで、高さは倍ぐらいある。日本の竹は一本ずつがスンナリと生えているが、ここでは数十本の竹が群生しており、奥は見えない。この一株は大人4~5人が両手を広げて周囲を囲めるほどで、一本の太さは30cmぐらいある。
第9章 マンダレー街道見ゆ
- 水田の中を懸命に
- 悲運の原大隊長散華す
- 一日遅れて街道を突破
- 小舟を探して
- 久しぶりの料理
- 白骨街道を上り下り
- ようやくゴム林へ
- 友軍陣地に入る
*・・・道の両側に多数の兵隊が腰を下ろしている。寝ている者も多い、目を大きく開いたままの兵もいた。谷川に下るとそこでは折り重なった死体があった。死体はまるで石ころのごとく我々のまわりに転がっていた。手榴弾や小銃で死んでゆく人はまだ体力のあるうちで、白骨峠では体力を消耗し尽くした兵士達が道端にへたり込み、そしてそのまま寝るように死んでいくのであった。
ー中略ー「おい頑張れよ」「もうだめです。先に行ってください」という。どう動かそうとしてもだめだった。あの地であのまま死んでしまったと思う。
注)編集者による主な企業の駐在員数と戦死者
- 日綿實業 183名 49名
- 大建産業(伊藤忠) na 40名
- 三井物産 83名 33名
- 朝日新聞 na 47名
- 三菱商事 163名 36名
- 横浜正金銀行 40名 4名
- 安宅産業 na 18名
- 富士紡績 145名 32名
- 東洋棉花 44名 12名
- 千田・岩井 100余 22名
- 日華油脂 25名 12名
- 西本組(三井建設) 16名 1名
- 日本通運 190名 58名
- 読売新聞 40名 5名
- 帝国ホテル 14名 3名
- 江商 na 5名
第10章 戦い敗れし日
- 〇一人トボトボと
- 〇入江少尉に終戦を聞く
- 〇疲労困憊の友を迎える
- 〇泰麺鉄道でバンコクへ
- 〇サイゴンにて終戦を知る
- 〇帰国の日近きを祈って
- 〇蘇生の思いで菓子を
- 〇竹の柱にニッパ屋根
- 〇生きて帰れた三つの幸運
- 〇戦友よ 商社部隊の働きは無駄ではなかった
- 〇亡き戦友のために法要を
- 〇万国博 ビルマの日
*大阪万博”ビルマデー”でのネ・ウイン将軍の挨拶抜粋:
・・・ビルマ・パビリオンが博覧会のテーマに描かれたのが協力の実例であります。ビルマに好意
を寄せられる旧軍人や縁故者の皆様が、わがパビリオンの為に日時と努力を捧げられた事は、わたし
の大きな喜びとするところであります。この機会にわたしはビルマ国民と私自身のために、皆様に
心から感謝の意を表したいと思います。
回顧録発行時に内地で存命されておられた方々(旧ラングン支店職員機構一覧表から)
- 森田丹
- 西山 博
- 奥田荘三
- 和田巌夫
- 山田文治
- 秦 豊政
- 高橋義数
- 真田繁治
- 藤田義之
- 蒲生清郷
- 山田義一
- 吉島晴人
- 石川幸造
- 池田俊彦
- 森貞信親
- 水野慶雄
- 小松幸一
- 高橋喜三
- 矢部忠勝
- 栗岡 栄
- 土井一郎
- 高見永ニ
- 吉岡辰夫
- 辻岡 登
- 佐藤清司
- 中財大雄
- 友部 隆
- 久米忠雄
- 北島 輝
- 佐久間利秋
- 渡邊千代太
- 越智義市郎
- 浅原三千夫
- 三原史郎
- 関谷和夫
- 飛鳥井武代
- 山本輔一
- 赤澤政弘
- 尾西秀雄
- 伊藤歳男
- 佐々木民二郎
- 黒田五郎
- 鈴木剛吉
- 高橋力雄
- 楠本敏雄
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
最後になりましたが、回顧録には記述されていない「牧洋生様(社友会会員、昭和9年7月生)からいただいたお父上の牧秀之助様の現地での日本軍との関わり」を紹介したいと思います。
QTE
父秀之助は、1901年(寅年)京都府福知山生まれ、福知山中学、第三高校から東京帝大英法科、在学中に外交官高等試験合格、外務省へ進むが、昭和2~3年頃に同郷であり、大学並びに外務省の先輩であった芦田均さん(後の総理大臣)に相談結果、日本綿花を推薦されて途中入社した。
ほどなく、印度駐在へ。昭和元年結婚し家族帯同して再度印度へ赴任。各地で綿花買付けなどを担当した。
印度マドラス州の王様(マハラジャ)から「虎撃ち」を許可され、虎を仕留める。英国の雑誌「SHOOTIでは、”日本人の虎撃ちは紀州の徳川公以来二人目”と紹介された。入社ほどない若者が「何故、印度で虎撃ちできたのか」は、当時印度では地方王族が綿花の作
付け収穫情報を一手に握っていたとされており、彼らとの緊密接触で印度綿花情報を一気に入手でき日本綿花の綿花買付け、輸出に重要な情報を得たためと思われます。
昭和16年の大戦勃発時も印度に単身赴任していたが、間もなくビルマ方面にも携わり日本国家の肝入りで「日本ビルマ木材組合」の理事長となり、チーク材の日本向け輸出に貢献したらしい。
更に、インパール作戦前段階で、密林では虎や凶暴な野獣が出没するので軍部より虎撃ちの経験を買われビルマ各地の山岳地帯を案内していたという。
どうやら、印度の友人を通じて英米の進撃情報の入手、ビルマ慰撫工作、ビルマ有力者、新興のビルマ国民軍の動静、機密情報の把握など、謂わば「裏の、影の協力」をしていたようです。
密林内の激務などで体調を崩し、軍用機で青島経由九州に一時帰国、東大の医者仲間に診断を仰いだが詳細分からず昭和18年5月死亡。解剖結果、南洋ばい菌による「肝臓膿瘍」と分かった。
民間人がめったに利用できない軍用機で帰国できたのは、軍部にとって重要な人物だったのかも。
父のビルマ赴任中、何度か日本あてに手紙が届いた。日本軍部の検閲を受けたのか千切れ千切れの手紙の中に「日本は間もなく猛爆を受ける可能性あり」と読み取れ、しばらくして親戚一同疎開を始めました。その後、日本各地が猛爆を受け、敗戦に至ったが親父の手紙通リになってしまい、残念至極である。しかしこのような状況の中で冷静に事態を見つめていた日綿人がいたということは記憶しておいてもいいのではなかろうか。
牧洋生
UNQTE
おわり
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