1983年10月22日夕、北京首都国際空港に着いた。2度目の中国、初めての北京で、空港から市街地までの道中及び市街地は街灯が少ないので薄暗く、何となく不安を感じたのを覚えている。今回は、大阪の大手木材問屋S社の要請による東北地方(旧満州)産の広葉樹原木の買付出張。当地産木材(業界語:”雑木=ぞうき”)を戦前にS社が取扱っていた事、同社が戦後に北海道産雑木を扱うも、国内住宅需要増に応じる事が難しくなり、ニチメン木材部に当地産雑木の輸入取り扱い依頼あり、大阪木材部勤務時にS社と親しかった筆者に出張命令が下りました。中国部に相談結果、早々に住山忠雄さんからハルピン貿易㈱小島サタ社長の紹介を受けました。小島社長と種々打合せを重ね、S社釧路佐藤支店長さん共々、訪中することになりました。北京空港(旧空港)では先乗りしておられた小島サタさんの出迎えを受け、天安門、中南海近くの全館が薄暗い「民族飯店」に宿泊。不安と期待が入り交じった第一夜だった。当時、外国人の地方移動は当局の許可が必要で三日後に取得し、北京駅に駆け込み、夜行列車軟座四人部屋で出発、ほぼ一昼夜かかって黒竜江省哈爾濱(ハルピン)に到着。哈爾濱国際飯店に投宿、林業局の面々との打合せを済ませ、翌々日牡丹江・虎林経由終着駅である「東方紅鎮」駅に到着。駅前の林業局招待所に入り、荷を解く。ここは、中ソ国境ウスリー江まで10数キロ、中国の最東端の林業の街である。宿舎内のテレビではソ連のロック番組を放映していた。

旧洪河農場:日綿と中国農墾部との合作農場、佳木斯から約300キロ
哈爾濱:ロシア風の大都会、哈爾濱駅で伊藤博文が遭難
東京城:旧渤海国の首都でもあった町
延吉近辺:朝鮮語族の多い地域
長白山(主峰が白頭山):松花江、鴨緑江の水源。山麓に目指す木材を多産。
臨江:鴨緑江の左岸は北朝鮮、巡回兵士が肉眼で見えた。

小島サタさん:終戦後に八路軍の通訳をされていた由で、八路軍出身者が多い林業局と親しく、流暢な満州語を話され、顔パス的存在で外貨を求める林業局の要請とが合致。品川区北品川にハルピン貿易を設立、木材、大豆粕等の取扱いを始められた。

取扱樹種:タモ材(中国名:水曲柳 英名:ASH)、楢材(中国名:柞木  英名:OAK)など

*タモは漢字で「梻」 ➡今回の本命である。主な用途:建築内装材(框など)、スキー板 農具、家具、銃台など 特に、青タモ、谷地(やち)タモは野球のバットに多用される。

*楢(なら)材は、家具、建築内装材、床材(フローリング)、洋酒樽など10月下旬で検品現場は氷点下、昼食後に白酒を一口グイ呑み、温まってから午後の検品作業。

検品前:東方紅林業処の面々、センターが筆者
佐藤さんと筆者が両木口に位置し、木口面の欠点等声掛け合いながら一本一本選木する。

検品基準:材長4mと6mの2種、直径45㎝以上、木口面無欠点(割れ・目回り等無し)、年輪(夏目、冬目)の整ったもの、円くて通直な形状であるもので、製材後の板面仕上がりを考慮しながら選木する。合格材には林業局の格付員(GRADER)の了解を得て、丸太の木口面に朱肉でS社の刻印を4~5ヶ所ほど打ち込む。朱肉で刻印を打込むのは”ごまかし防止”である。成果:約400M3(約1,440石)成約、翌4月に大連港発北海道釧路港着、S社からは「いい商売をさせてもらった」と好評で、”次回はいつ?”との催促が続いた。大連港船積みの際には、大連店の松尾邦晴支店長にたいへんお世話になりました。本紙面を借りて、厚く御礼申し上げます。因みに、S社から、この中国産原木輸入が日本では戦後初めてだったとの報告を受けている。
ここで、JAS規格(日本農林規格)での材積計算の話をしましょう。材長(計算上)が6m(実長6.2m)で、細い方の木口の直径を二乗し材長を乗じる。

*直径50センチ・長さ6m➡0.5x0.5x6=1.5リューベ(立方米)業界では取引単位に”石:こく”を用い、請求書などの書類上では”M3:リューベ”を使う。

*石とは、1尺x1尺x10尺(1丈)で、30.3㌢x30.3㌢x3.03m=0.278M3

*1M3÷0.287M3=3.6石/M3➡穀物計量での「石(こく)」も同じ計算です。

立木(リュウボク:林地に生えてる樹木)の伐採:ここでは落葉樹のケースで説明します。伐採時期:落葉し水分を吸上げず、成長がストップする時期、即ち、秋彼岸~春彼岸の間が最適。林地に雪が降り、含水率が減じた丸太を人力力、牛馬力、重機で凍結した林地を滑らせ、山土場(最奥の原木集散地)へ運び、そこからトラックなどで鉄道駅近くの集積場へ搬出し、検品、造材(トリミング)、格付、検量、完了後、買い手に引取られ、乾燥して製材される。注、満州での積雪量は北海道に比べ、極めて少ないので運材は北海道比かなり捗ります。
以降、小島社長の黒竜江省ルートに加え、北京林業部傘下の「国際林業合作公司」、吉林省林業局、遼寧省林業局等のルートを開発、1988年末迄この商いは続き、訪中も10回を数えた。この間の主な訪問先は、黒竜江省:哈爾濱、東方紅、興隆鎮、佳木斯、樺南、方正、東京城等吉林省:長春、吉林、通化、敦化(旧渤海国の最初の首都)、大蒲柴河、黄泥河、松江、白河、露水河、臨江(鴨緑江沿いの街、対岸は北朝鮮)などで概ね「長白山」の西側山麓の街である。顧客も大阪S社(佐藤さん、木花さん、辻さん、松本さん)に加え、北海道旭川のA社Oさん等

➡いずれの方もこの種雑木商いのプロで、目利きの人達ばかりで、大いに助かりました。取引形態も各林業局相手の直取引から、各省林業局が大連市近くの大連湾林場で主催する入札形式(日本の商社、木材問屋、等が応札)に切替わり、奥地への検品出張はほぼ無くなりました。 

➡この種取り引きも、1989年6月の天安門事件の余波で商いそのものは延期状態。

一等材の掽積み
(はえつみ)
一等材(径65cm)
の木目
検品中の筆者:於、
大連湾貯木場

注:丸太を横に積み上げ山のようになったの「掽=はえ」と言う。

10回の当地出張の際には、松尾邦晴さん、小出誠一さん、緒方政治さん、籠波俊之さん修淑琴さん、西村光雄さん、佐藤英二さんにお世話になりました。有難うございました。

***業務の合間:

小島社長持参の炊飯器とおむすび:
その日は休息日、哈爾濱国際飯店の自室で昼食の心配をしていたところ、”ごはん炊けたよ!食べにおいで!”と社長から電話。佐藤さんと社長の部屋へ出向いたところ、テーブルの上に「海苔巻きおにぎりと沢庵と鯖缶」が三人前。おにぎりはまだ温かい!炊飯器にはまだ炊き立てのご飯がある。お代わりOKと言う、米も日本から持参した「コシヒカリ」だ。”涙が出るほど美味しかった!”中国料理が続いていたので格別だ。お代わりもいただいた。どうやら、炊飯器、日本米、缶詰、漬物などは国際飯店に預かってもらっていたようだ。検品など地方移動後に哈爾濱へ戻る楽しみが増えました。

残留日本人?:84年6月樺南市街地を散歩中、道端の縁石に腰掛け、ジィッ~とこちらを見詰める爺さん(60代半ば?)と10数秒ほどだが目が合った。通訳と話す筆者の声高の大阪弁が耳に入ったのか、何かを話したいような、迷ってるような、でもジィッ~とこちらを見てる。粗末な服装で、髪は薄く残った白髪が乱れ、長年の苦労がにじみ出てるような顔立ちがどうも地元の人達とは多少違うような印象を受けた。そのまま行き過ぎたが、いまでも、あの何かを訴えたいよいうな目線をハッキリと覚えております。話は飛びますが、1972年インドネシアのハルマヘラ島で同じような眼差しの老人に見詰められたことを思い出しました。

白酒(パイチュー)はキツイ:戦後東方紅に来た日本人は多分我々が始めてだろう。林業局の人達のほか、多くの地元民が、我ら日本人を見に集まって来た。一方、招待所の担当官達との夕食が始まる。彼らは官費で呑み食いできるし、お酒も高級だし、円卓には食べ切れないほどの地元料理が出てくる。私達は所謂「ダシ」でまるで彼らの宴会みたいだ。そして乾杯が続く、なぜか筆者に集中攻撃だ。小島社長曰く、「無理して呑まない、たくさん食べて胃を満たしてから吞むように、断ってもいいんだよ」などとアドバイス。でも、酒好きの筆者はついつい、お相手する事に・・・。次の出張からは、日本からベビーチーズを持参する事にし、事前に3~4個ほど食べてからいざ戦場(宴会)へ臨むことにしました。

凍てついた道路はまるで高速道路:冬の満州は降雪はあるが、積雪は殆ど無い。零下数十度道路は凍結するが我らの乗るミニバスは通常タイヤでチェーン無しで高速で疾走する。でも滑らない。行き交う車も少なく、空気中の水分は凍結降下してる。彼らは平気で突っ走る。 ここまでの低温ともなればタイヤとの摩擦で路面が溶け出す事もないようだ。

外貨兌換券(1980年から使用開始、1995年に廃止):
当時、宿泊費、交通費、私的買い物などの支払いには、外国人のみが使える「外貨兌換券」を使った。交換レートは1983年当時で約110円/元・・・「世界経済のネタ帳」調べ友諠商店での買い物の際、「おつり」を女服務員から投げ返され、驚いた記憶が残っている。

➡1980~90年代に中国へ駐在、出張された方々にはご記憶のことと想います。

・黒竜江省の僻地である林業局では、この兌換券の存在を知らない人達もいました。

・人民元紙幣はほぼ全てがしわくちゃで、汗と涙が染み着いたのだろう「臭いお札」だったとの記憶が残ってる。

・兌換券と臭い人民元の交換率は闇で、兌換券1元=1.5~2.0人民元だった由。

木材の乾燥:針葉樹(松、杉、檜など)、広葉樹(楢、タモ、ケヤキ等)を問わず、木材固有の欠点(収縮、割れ、反り、ツイストなど)をミニマイズさせ、最終製品(家具、床材など)が”長期間狂わない”ように乾燥が不可欠で、厳重なる含水率管理が行われる。特に広葉樹は英文で「HARDWOOD」と表すように、針葉樹「SOFTWOOD]に比べ、極めて堅く、含水率管理が難しい。樹種にもよるが、製材後に天然乾燥(AIRDRY)で1年~2年、徐々に含水率を下げ、最終的には近年流行りの人工乾燥(KILNDRY)で最終微調整調整する。従い、長期間資金が寝る事になり、コスト負担が生じる。高級家具などが高価なのは、素材価格、運搬費のほかに、乾燥を含めた加工コストが大きな割合を占めているためなのです。最初から人工乾燥してしまえばコストダウンになるのだが、急激な含水率減少は木材細胞に悪影響を与え、様々な狂いが生じる事が多いで、伝統的な”天乾+人乾”方式を採用している。まさに、”匠:たくみ”の世界と言えます。

おわり