コロナ下でも近くへはよく出かけた。京都へ藤田さんの絵を見に行ったり、社友会ハイキングに参加して山科や河内長野に出かけたり、大阪中之島の中央公会堂にオーケストラを聞きに行ったり、大阪倶楽部に出かけたりした。いま自宅近辺でも外国人旅客が見られるようになり、ついに私もお誘いに乗って、3月24日、東京に出かけた。
全国的に曇時々雨の予報の中8時24分西明石発東京行きの新幹線の北窓グリーン席に乗った。天候のせいで咲き始めた沿線の桜は見えず、富士山も見えなかった。早い昼食を車内で取った。
品川で降りて乗り換え、昼前に昔通いなれた田町駅に着き、目的地芝公園の東京プリンスホテルに行くために三田側のタクシー乗り場を探したがなく、海側に移されていた。駅の海側はきれいに整備されて、ここで初めて開花した桜の花を見た。タクシーが海側から山側に抜けたときはもうNECのロケットビルの北側の交差点に出ていて、昔通った旧ニチメン東京本社ビルは見られなかった。芝公園と東京プリンス玄関前の桜に迎えられて、昼過ぎに無事ホテルに着くことができた。
12時半からホテルの大ホールで「東京会議2023」が開かれ、私もそれに参加した。「国際秩序が不安定化する中で、自由と民主主義、法の支配、ルールに基づく秩序の立ち位置から国際協調と他国間協力を促進するため、2017年に言論NPOが立ち上げたハイレベルな国際会議です。世界を代表する10ヵ国シンクタンクの代表者が東京に集結。東京から議論を発信し、会議内での主張や意見をG7議長国に提案する日本初の国際会議です。」という主催NPOの案内と招待に応じて参加したが、この紹介文どおり、各国から集まった多くの論者(G7・G20各国の元および現大統領・首相・大臣やシンクタンクの代表者)がいくつかの論題(ウクライナ戦争の終結と世界平和の回復・各国および国際社会での法の支配と民主主義の確立)につき議論し、参加者が質問状を書いて議論に参加し、最後に提案書を採択してG7議長国日本の岸田総理に提出する形式で行われた。会議冒頭に川口順子元外相が述べた「習主席のロシア訪問・プーチン大統領との会談と時を同じくして行われた岸田首相のウクライナ訪問・ゼレンスキー大統領との会談により、世界平和に貢献するG7議長国日本の岸田総理を激励したい」といった趣旨の会議であった。会議では熱心な議論が行われ、そこから私は多くの実践的な知識と勇気を得、主催者に感謝した。
神戸まで帰らなければならないその日の日程に合わせて、18時に私は会場を後にし、ホテル玄関前と芝公園の桜に名残りを惜しみながら、タクシーで田町駅に向かった。田町駅山側(三田側)のタクシー降り場まで最短距離を走ってくれたので、帰路はタクシーの窓から正面に旧ニチメン東京本社ビルを見ることができた。ビルは外面が改装されて美しくなったように見えた。ビルが建てられた当時の目的である日産自動車の本社ビルに戻すためか、ビルの共同所有者であった日本生命が何らかの目的で改装したのか、ただ古くなって改装したのか、そのいずれであるか判らなかった。そんなことはどうでもよかった。ただあのビルが厳然と残っている事実に感動した。
帰路は品川から新大阪まで新幹線のグリーン席に座って、田町のニチメン東京本社ビルに通っていたころのことを回想した。遠望する朝富士とレインボーブリッジの夜景が美しい職場だった。1999年10月に退職する前年にニチメンから「変革と挑戦」という小冊子をもらった。ニチメンはよい会社だった。他社と合併するとは思わなかった。冊子には、このビルの24階の食堂から見たレインボーブリッジの夜景が載っている。いつかもう一度そこに立って朝富士と夜景を見たいという気になった。
東京会議で見聞きしたことも、もう一度想起した。会議のブラジル代表はジェトゥリオ・ヴァルガス財団から来ていた。ジェトゥリオ・ヴァルガスは1970年代私のブラジル駐在時にブラジル政界で活躍した人なので、彼の発言に私はとくに興味をもった。彼は民主主義の効用につき長い話をした。その前に発言したインドネシアの代表は、それを静かに聴きながらも終始不満の様子であった。彼は、インドネシアのような多民族・多文化の国家では、社会主義も民主主義も必要で、いま米ロ対立の中で、二者択一で民主主義陣営に加われと言われても不可能だという。これはよくわかる話だと私は思った。これを理解しないと、民主主義陣営はイラク戦争のような過ちを起こす。戦後独立した諸国は、旧宗主国が引いた国境線内で、多民族を含んだまま独立しているからである。
結論として、いま岸田総理を先頭に立てて日本がすべきことは、ウクライナ和平にむけての平和工作・戦後復興への協力と、民主主義国家群のリーダーの一員となるにふさわしい国内法制度の整備とである。後者の要点は、労働賃金の上昇、性別不平等の撤廃、地球環境保護、移民の受け入れ拡大、過去の戦争加担への反省などであると思う。
通商国家カルタゴは、ローマに戦争を仕掛けたために町を焼かれ、二度と再生できないように塩を撒かれた。日本は米国に戦争を仕掛けたために多くの町が焼かれ、原爆を二度も投下された。ウクライナは黒海に面した通商国家であるが、今回の戦争はウクライナが仕掛けたのでなく、ロシアが仕掛けた前世紀型の帝国主義戦争である。ロシアを非難しながらも、まず平和を回復しなければならない。言論NPOの工藤代表は、自衛隊の入った国連PKOの創設を提唱していた。
資源のない日本には貿易立国の途しかなく、平和な通商国家として生きるしかない。国力回復と平和維持のための最も優れた道具の一つとして活躍したのが総合商社であった。私が日綿に入社した翌年1960年ころに、取扱高で繊維商社は非繊維比率を、金属商社は非金属比率を各50%以上にするというやり方で、元繊維商社・非繊維商社の合計10社が総合商社として発足した。のち安宅産業が倒産して脱落したが、総合商社9社は双日が誕生した2004年ごろまで(私の退社は1999年)、各社が世界にその名をとどろかせ、商社マンは世界を股にかけて走り回り、競って貿易立国と世界平和に貢献した。国内卸売業だけでなく、輸出・輸入・三国間貿易・国内投資・国際投資・三国間投資・国内外での土地開発と建設・プラント輸出・航空機ほか機械のリースなどもやり、商品の総合商社でもあり、機能の総合商社でもあった。総合商社という業種の創造はシュンペーターのいうイノべーションの典型だという人もいるが、私もそう思う。今後もその活躍に期待したい。
こんなことをいろいろ考えているうちに、新幹線の新大阪駅に着き、接続している姫路行き快速電車に乗り換えて、早々に垂水の自宅に帰りついた。
(2023.3.30)
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