筆者は2005年-2008年の3年間、双日㈱から日本貿易振興機構(JETRO)に出向、同機構大連事務所で海外投資アドバイザとして勤務した。大連は毎年5月中下旬にアカシアの花が香り、また海辺なので季節の変わり目には放射冷却で霧が良く発生して幻想的な街である。思い出が深く懐かしい街である大連の見どころについて以下ご紹介したい。

広場と都市計画

大連は中国東北遼東半島の最南端にあり、緯度から見ると日本の仙台、アメリカのサンフランシスコ・ワシントンDC、ギリシャのアテネと同じ緯度にある。東は黄海、西は渤海、南は山東半島と海を隔てて向かい合い、北は広大な東北平野に隣り合っている。大連は東北、華北、華東地域が世界各地と繋がる海上の門口であり、最も重要な港、貿易、工業、観光都市である。

1880年代に清朝が大連湾北岸に砲台を築き、都市が形成され始めた。1894年日清戦争後、遼東半島は日本に割譲されたが、ロシア・ドイツ・フランスの三国干渉によって半年後に清国に返還される。1898年、ロシアは極東における不凍港を求めて、三国干渉の代償として、清から旅順と大連湾を含む関東州を租借した。その任務を帯びたのがロシアの国策会社である東清鉄道会社で、満州里からハルピンを経て大連・旅順と続く大規模な鉄道網の敷設に着手した。この港町に東清鉄道の終着駅を設け「ダーリニー」(Дальний; 「遠い」)と名づけた。大連の都市建設と並行してロシア海軍と陸軍は旅順に強大な軍港と要塞の建設を進めた。ロシア極東艦隊と要塞の物資をまとめるため、また貿易の拠点として、港の整備とパリをモデルにした都市づくりが始まった。1904年に勃発した日露戦争(旅順口・旅順要塞(=203高地・東鶏冠山)攻撃、日本海海戦)を経て、同年5月末には日本軍が無血入城を果たし、戦後の1905年ポーツマス条約により日本はロシアが租借していた遼東半島を引き継ぎ、植民地経営に乗り出した。日本は南満州鉄道株式会社(略称:満鉄)を設立して東清鉄道を引き継いだ。日本は古地図に見られる中国語の地名「大連湾」からとった「大連」を都市名として採用した。ロシア統治時のダーリニーが大連となったと言われている。1905年統治開始から1945年の終戦までの40年間、日本はロシアが残した素晴らしい都市計画の青写真を引き継ぎ、東洋のパリの建設に邁進した。1944年7月には大連には20万人の日本人が住んでおり、大連市全人口80万人の1/4を日本人が占めた。

出所:釜山でお昼を(http://nekonote.jp/)

中山広場

大連には大きなロータリー(広場)が数多くある。中でも有名なのは中山広場である。中山広場を囲んで旧大連ヤマトホテル(大連賓館)、旧大連市役所(中国工商銀行)、旧横浜正金銀行(中国銀行)、旧大連民政署(遼寧省対外貿易経済合作庁)など日本統治下で建てられた建築物が8棟残されている。これらは「大連中山広場近代建築群」として全国重点文物保護単位(国家級の文化遺産)に登録されている。この外にも市内にはたくさんのロータリー式交差点があるが、これはもともとロシアがパリなどを模してロータリーと放射状の街路を持つ都市として設計し、戦後も大連市政府がロータリーを多く作ったからである。(以下の中山広場の写真は筆者が撮影)

中山広場 1号 中国工商銀行中山広場支行
(旧:旧朝鮮銀行大連支店)
中山広場 2号 遼寧省対外貿易経済合作庁
(旧:大連警察署)
中山広場 4号 大連賓館
(旧:大連ヤマトホテル)
中山広場 5号 中国工商銀行大連市分行
(旧:大連市政府)
中山広場 6号 交通銀行大連市分行
(旧:東洋拓殖大連支店)
中山広場 7号 中信銀行中山支行
(旧:中国銀行大連支店)
中山広場 9号 中国銀行遼寧省分行
(旧:横浜正金銀行大連支店)
中山広場 10 号 大連市郵政局
(旧:関東逓信局)
大連市重点保護建築の標識
中国銀行遼寧省分行(旧:横浜正金銀行大連支店)

当時の建物で中山広場3号にあった英国駐大連領事館は取り壊され現存していない。また中山広場8号は1950年に大連人民文化クラブが建築されているが、建築年時が比較的に新しいため大連市重点保護建築からは除外されている。


1941 年当時の中山広場 出所:南満洲鉄道株式会社編集・発行「大連」より


出所:ウィキペディア

旅順

旅順(旅順口区)はNHKでドラマ化された司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」の舞台の一つともなった。大連市内から車で約1時間で旅順に到着する。1996年に旅順の北部が開放され、日露戦争の激戦地二〇三高地、旅順港攻防戦の停戦条約が結ばれた水師営会見所跡などが外国人に開放された。一方、軍港の周辺に市街地が広がる南部では、外国人が立ち入るためには同市公安局の特別許可証が必要で、違反者は拘束されることもあった。大連市人民政府は旅順南半分の対外開放を希望していたが、中国海軍の既得権益とも絡み、議論が続けられていた。日本国瀋陽総領事館在大連出張駐在官事務所によると、“2009年11 月旅順口区の正式対外開放が国務院、中央軍事委員会により批准されたことが報道され、中国政府が軍事区域として外国人の自由な立ち入りを禁じていた大連市旅順口区(旅順)が軍事施設周辺を除いて対外開放されたが、外国人入域規制も大幅に緩和されたことが判明した。詳細情報は公表されていないことから、立ち入りの際には、軍の管理する施設に立ち入らないこと、個人観光は避け旅行社のツアーに参加すること等注意を要する”としている。


出所:看看大連 旅順の観光スポット(赤印)

外国人立ち入りが制限されていた旅順南部の中で、是非訪問したいのが旅順博物館、関東軍司令部跡である。

旅順博物館

旅順博物館は日本植民地時代に建設された。旅順博物館は帝政ロシア時代に「将校クラブ」として使われていたものである。日本軍が旅順を占領した後、1915年に満蒙物産陳列館としてスタート、1918 年に名称を“関東都督府博物館に改称、同年博物館主館が完成、その後、分館を増設、1934年に“旅順博物館”と改称。1945年のソ連対日参戦によりソ連軍が満州(現“中国東北部)に侵攻、遼東半島を占領。1951年ソ連政府が管理していた旅順博物館が中国に返還され現在に至っている。現在、同博物館は中国の国家重点文物保護単位に指定されている。旅順博物館の敷地面積は25,000㎡で、主館は歴史文物を青銅工芸や漆器、仏像、銅鏡など13項目に分けて展示している。一方、分館は大連古代文明と日本画、日本・朝鮮陶瓷、古代インド石刻、外国近代切手などの外国文物を展示している。大谷探検隊(注)がトルファンの楼蘭で発掘した1300年前のミイラを始めとして中央アジアで発掘された文物が多数陳列されている。旅順博物館を有名にしているのは、大谷探検隊が持ち帰った貴重な文物があるためである。

旅順博物館(主館)
旅順博物館(主館)正面玄関
旅順博物館入口、旅順博物館(主館)を望む
旅順博物館(分館)

関東軍司令部跡

関東軍は大日本帝国の中華民国からの租借地であった関東州(遼東半島)の守備、および南満州鉄道附属地警備を目的とした関東都督府の守備隊が前身。旅順の関東軍司令部跡は、旅順博物館本館の向かい側にある。日露戦争で、日本軍が遼陽にて関東総督府設置、1906年に旅順へ移り、関東都督府へ改称、下に陸軍部を設けた。1919年都督府はなくなり、陸軍部は関東軍司令部となった。関東軍司令部は当初旅順に置かれたが、満州事変後の1932年満州国の首都である新京(現・吉林省長春)に移転。「関東軍」の名称は警備地の関東州に由来する(関東とは、万里の長城の東端とされた山海関の東を意味する)。

旅順の関東軍旧蹟博物館(旧関東軍司令部)
同博物館の展示

日露戦争(203高地、東鶏冠山、水師営)

ロシアは1896年の露清密約の後、1898年に遼東半島を租借し、旅順口を太平洋艦隊(後の第一太平洋艦隊)の主力艦隊(旅順艦隊)の根拠地とし、港湾を囲む山々に本格的な永久要塞を建設した(旅順要塞)。日本は、朝鮮半島周辺海域の制海権を押さえるためにロシア旅順艦隊の完全無力化が不可欠、また旅順要塞に立て籠もったロシア陸軍勢力(2個師団)も脅威であり、これを撃破する必要があった。日露戦争の主戦場となったのが203高地と東鶏冠山ロシア軍要塞である。203高地はその名の通り標高203メートルの小山で坂道を15分も歩けば山頂に到着。山頂に立てば旅順の町と旅順港が一望出来る。戦争後に乃木希典大将が建てた銃弾の形の忠魂塔(慰霊碑)があり、周辺に残された薬莢や大砲の残骸を集めて作られ、「爾霊山(にれいさん)」と名付けた。

旅順 203高地攻略により日本陸軍が設置した 28cm砲
合計18門が日本から旅順へと移送され、203高地を含む攻略旅順攻囲戦に投入された
203高地山頂の忠魂塔
塔は爾霊山(にれいさん)と刻まれている203 高地に設置された観測所による28cm砲火によりロシア旅順艦隊は壊滅
1905 年 1 月 15 日旅順軍港攻防戦の停戦条約が締結会談した‟水師営“(会見所=農家)、現在の建物は1996年に復元されたもの
水師営内部、野戦病院用の手術台で講和条約が締結された。日本代表は第三軍司令官・乃木希典大将、ロシア代表は旅順要塞司令官・アナトーリイ・ステッセリ中将
水師営の庭先の棗の木の下での両軍記念撮影
中列左から 2 番目が乃木希典大将、3 番目がロシア軍 ステッセリ中将
東鶏冠山のロシア要塞、日本陸軍の猛攻にあい陥落
東鶏冠山のロシア要塞の案内図

大連の味:

大連で美味しいものと言えば渤海湾と大連湾で取れるアワビ・ナマコ・渡り蟹・シャコ・ウニ・貝類・魚類など新鮮な海産物を豊富に使った海鮮料理である。どこの海鮮料理店も店の入口付近に水槽を備えており、生きた海産物を展示している。客はその水槽を見てどれをどのよう料理して食べるかを服務員(店のウェイトレス)に伝えて料理してもらう。中でも、お薦めはシャコ・ナマコ・ヤドカリである。シャコは蒸したものや塩・胡椒・ニンニクで味付けし油で揚げたものが美味で山盛りになって出てくるが、殻付のままなので殻を手で外して食べる。ナマコは生のものを薄くスライスし醤油とお酢につけて食べる。乾燥したナマコを水に漬けて戻して食べるのが中華料理の常だが、生のナマコも実に旨い。また冬場しかないが全長20cmもあるような蒸したヤドカリは海老や蟹よりも旨く、特にヤドカリお尻の部分はフォアグラと同じ味がして、ボディーや手足の肉よりも実に美味で更に旨い。上記を食べるのであれば、海鮮料理を主体とするレストランが多数あるが、大連市内の大型店なら東海明珠美食城や万宝海鮮舫、チェーン店なら川王府や天天漁港等がお奨めである。大連を訪問されるチャンスがあれば、是非お試し頂きたい。

椒塩爬蝦(シャコの塩胡椒炒)
寄居蟹(蝦怪)(蒸したやどかり)

以上

注 1876年(明治9年)に、浄土真宗本願寺派の第21世門主 大谷光尊(明如)の長男として誕生した大谷光瑞(おおたにこうずい/1876-1948)は、宗教家としても探検家としても知られている。1902~1914年三次にわたって大谷探検隊を中央アジアに派遣し、シルクロード・西域文化研究に関する貴重な資料を収集した。光瑞はそれらを整理して旅順博物館に寄贈し公開展示されている。
また大谷光瑞は昭和9年に伊東忠太に設計させたインド・アジャンタ様式の伽藍を東京の築地に、西本願寺別院として建てた人物でもある。